都道府県別 古代豪族の話 著:田中広明(たなかひろあき)
㉔ 新潟県(にいがたけん)
高志公船長(こしのきみふななが)
【頸城平野を切り開いた男】
かつて奈良県の西大寺には、頸城郡(上越市)の大領、
高志公船長の「田図」という文書がありました。
「西大寺資財流記帳(さいだいじしざいるきちょう)」という財産目録にだけ登場する資料です。
田図は、船長の土地が、西大寺の土地となっていたことを示しています。
この土地は、船長が、頸城郡で墾田を行い西大寺に寄進した荘園か、
西大寺と船長が、協力して立てた荘園と考えられます。
西大寺の荘園が頸城郡に立てられるより前、天平勝宝五年(七五三)に
東大寺の石井庄(いわいのしょう)が、三和町付近に立てられました。
東大寺は聖武天皇、西大寺は娘の称徳天皇が、国家の威信をかけて建立した寺院でした。
しかし、もともと両大寺院の建立や運営の資金など国にはありませんでした。
そこで、天平十五年(七四三)、墾田永年私財法を出し、新しく土地を開墾して荘園とし、
農民に貸し付けて運用益を財源に充てようとしたのです。
けれども実際に土地の開墾を行うには、用水の水利権や開墾の労働力集めなどの問題がありました。
そこで昔から地域の農民たちをまとめていた豪族たちに協力を仰ぎ、解決を図ったのでした。
その一人が、船長だったのです。
船長の拠点は、初期寺院の栗原廃寺がある新井市栗原付近とされています。
この付近に頸城郡の郡家もあったことでしょう。
そして、船長やその一族は、越後国府の所在郡の豪族という地の利を生かし、
まず東大寺の初期荘園経営にかかわり、称徳天皇と道鏡の政権のもとでは、
西大寺に荘園を寄進し、再び道鏡政権が瓦解すると、延暦八年(七八九)、
東大寺が頸城郡に真沼荘(まぬまのしょう)を立てる事業に「田図」を提出するなど協力したのでした。
なお、平安時代にも高志公今子(こしのきみいまこ)が、優秀な女性として表彰されたり、
古志得延(こしのとくえん)が、石井荘をめぐり騒動を起こしたりと、
船長の末裔は、貴重な逸話を残しています。
㉓ 香川県(かがわけん)
佐伯直真魚(さえきのあたいまお)
【日本最大のため池を築いた男】
空海は、宝亀四年(七七三)、多度郡の豪族、
佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)のもとに生まれました。
十五歳で都に上り、大学に入って勉強をつみ、
三十一歳で遣唐使の留学生に選ばれて唐にわたると、
わずか二年間で密教をはじめ、さまざまな分野の学問を修め、
仏典をはじめ数多くの文献を持ち帰りました。
帰国後、空海は真言宗を開くと、嵯峨天皇から高野山を与えられ、
布教と執筆活動に邁進しました。
そんな折、讃岐国で満濃池が決壊し、ふるさとの多度郡や那珂郡などが、
甚大な被害を受けました。
満濃池の修理に朝廷から路真人浜継(みちのまひとはまつぐ)という技術官僚が
遣わされましたが、なかなか工事がはかどりません。
そこで国司の清原夏野(きよはらのなつの)は、
讃岐国の人々とともに空海を呼び寄せたのです。
空海が、築池別当(ちくいけのべっとう)という役職で讃岐国へ下ると、
国中から人々が父母を慕うように集まりました。
空海は、満濃池をこれまでに無いアーチ型ダムとし、岩盤をけずって水量調節装置を設置し、
堤防内側の護岸を強固にしました。
また、空海は工事の様子が見渡せる岩山に上り、護摩壇(ごまだん)を設けて火を焚くと、
一心不乱に経文を唱えたのです。
ついに、工事は完成しました。わずか三ヶ月でした。
満濃池の工事では、超人的な空海の活躍が際立ちますが、空海を招いた清原夏野の判断や、
多度郡における佐伯直氏の伝統的な求心力も大きかったのです。
なお、清原夏野は、他国の人々からも慕われ、
私費で大輪田泊(おおわだのとまり<兵庫港>)を修復し、のちに右大臣となりました。
㉒ 栃木県(とちぎけん)
下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)
【大宝律令作成の責任者】
鍛造大角(かぬちのみやつこおおすみ)、道君首名(みちのきみおびとな)とともに
「大宝律令」を講義するため、皇族や官僚、役人たちのもとへ向かいました。
この年の三月二十一日、わが国の基本法典が完成し、ようやく施行に向けて、
皇族やさまざまな役人を前に編纂の責任者が、講義をするためです。
大宝律令の編纂には、藤原不比等を中心に渡来系の人々や当代きっての学者が集いました。
そのなかで古麻呂は、下野国の大豪族、下毛野君の血筋を引く人物でした。
古麻呂は、持統天皇三年(六八九)に六〇〇人の奴婢(ぬひ)を解放した人物です。
家に仕える人々が、六〇〇人もいたとは、当時の地方豪族の勢力がいかに大きかったか。
驚くべき数字です。
古麻呂は、このとき直広肆(じきこうし)という従五位下(じゅごいげ)相当の位でした。
これは、貴族の末席にあたります。
冠位の高さから、古麻呂は早くから都に上り、学者の道を志していたと考えられます。
六〇〇人という奴婢は、都でかかえた奴婢ではなく、故郷の下野国に残した財産でしょう。
しかも、下野国に親戚が残っていたでしょうから、まだまだ膨大な耕地や山林、
そして多数の奴婢を温存していたかもしれません。
七世紀の末、下野国河内郡(下野市)に下野薬師寺が建立されます。
下野薬師寺は、のちに僧侶が受戒する「戒壇院」が設置されます。
この寺は、下毛野氏の氏寺として建立され、のちに「官寺」となった大寺院です。
その成長は、古麻呂の出世と歩みをともにしていました。
古麻呂は、大宝二年(七〇二)、従四位下となり、いよいよ国政に参画します。
そして、大宝律令の功績により功田三〇町、封戸一五〇戸を賜ります。
その後、兵部卿、式部卿など閣僚を歴任しました。
そして、和銅二年(七〇九)十二月、古麻呂は、その生涯を閉じたのです。
㉑ 長野県(ながのけん)
金刺舎人八麻呂 (かなさしのとねりはちまろ)
【恵美押勝の乱で活躍した牧の別当】
金刺舎人八麻呂は、恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂、なかまろ)が
乱をおこすと、その鎮圧戦で大活躍をします。
おそらく、馬を巧みに扱って押勝軍を撃破したのでしょう。
なぜならば、八麻呂は、古墳時代以来、伝統的に馬を飼育し、
朝廷に貢納し続けた伊那谷の出身だったからです。
八麻呂は、天平神護元年(七六五)、軍功によって勲六等という勲位を得、
また、外従五位下(げじゅごいのげ)を賜りました。
この位は、地方豪族としては破格で、国司と並ぶ位でした。
八麻呂は、その三年後、伊那郡の大領、信濃国の牧別当(まきのべっとう)として
登場します。
宮中の警護の職から地元の郡司となり、
恵美押勝の乱の後、京内の軍事力は、天皇が集中支配することとなります。
そのため、騎乗用の馬を直接管理する内厩寮(ないきゅうりょう)が置かれました。
その役所へ馬をおさめる政府直轄の牧場(御牧<みまき>)の
別当は、のちに牧監(もくげん)とよばれ、信濃国に二人置かれました。
一人は、牧の中の牧と呼ばれた望月牧(東御市)専属の役人、
一人は信濃国にたくさんあった御牧の管理にあたりました。
ところで、八麻呂の故郷、伊那谷は、朝廷の馬を産出するばかりではなく、
東国諸国からの税や年貢が必ず行き交う場所でした。
また、飛鳥時代の末には、恒川遺跡に早くも役所が建てられ、
岐阜県東部や浜名湖などで作られた須恵器が、そこで積極的に使われるなど、
交流の結節点でした。
しかし、木曽路が新たに設けられ、信濃国府が筑摩郡(松本市)へ移ると、
⑳ 大分県(おおいたけん)
大分君恵尺と稚臣(おおきだのきみえさかとわかみ)
【壬申の乱の功臣】
まず、大海人皇子(後の天武天皇)の側近として仕えていた恵尺は、
皇子から飛鳥の古宮の留守司(近江朝廷側)が持つ駅鈴を奪取するか、
近江京(滋賀県大津市)から大海人皇子の子どもの高市皇子と大津皇子を
つれ出すように命令されました。
駅鈴の奪取には失敗しますが、皇子らを伴い、伊勢国で合流することに成功します。
いっぽう、飛鳥の古宮の留守司が、大海人皇子の動静を近江朝廷に伝えたことで
壬申の乱が始まります。
大海人皇子軍は、伊勢から尾張、美濃と進み、軍勢を急速に拡大して近江京に向かいました。
そして、都の入り口、勢多の唐橋(大津市)で近江朝廷軍とにらみ合いとなります。
その硬直を打ち破ったのが、大分君稚臣でした。
かれは、よろいを重ね着し、雨のように飛んでくる矢にあたりながらも、
先頭を切って唐橋をわたり、勇猛果敢に近江朝廷軍に向かったのです。
その勢いに大友皇子郡は戦力を失い、武将の智尊(ちそん)も橋のたもとで斬られ、
ついに総崩れとなったのです。
このように大分君恵尺と稚臣は、壬申の乱を大海人皇子側を勝利に導く
画期的な活躍をし、乱後も皇子によく仕えました。
二人の臨終のとき、天武天皇となった大海人皇子から
恵尺は、外小紫位(げしょうしい:従三位<じゅさんみ>)、
稚臣は外小錦上(げしょうきんじょう:正五位上<しょうごいじょう>)という
貴族に匹敵する地方豪族では破格の位を賜りました。
大分市の郊外、三芳町の小山の中腹に小さな古墳があります。古宮古墳です。
畿内の豪族や皇族、官人たちの墓で採用された
「石棺式石室」という構造の横穴式石室を築いています。
畿内以外にはめったにない型式の古墳であることから、
天武天皇の側近として活躍した恵尺か稚臣の墓と考えられています。
とすると、大分市の郊外には、古宮古墳のような古墳が、
もう一つまだ眠っているのかもしれません。
⑲ 島根県(しまねけん)
出雲臣廣島(いずものおみひろしま)
【『出雲国風土記』をまとめた男】
『風土記』は、各地の物産や自然、村、神社、寺、道路、伝説などをまとめた地理の本です。
現在、五つの国しか残っておらず、しかも完全に近い形で残っているのは、
この『出雲国風土記』をまとめた最高責任者が、出雲臣廣島でした。
出雲臣廣島は、国府の意宇(おう)郡(松江市)の長官(大領)であり、出雲国の国造でもありました。
国造は、飛鳥時代以前、地方の代表する有力豪族に与えられていました。
しかし奈良時代以降は廃止され、わずかに紀伊国や出雲国などに残されました。
つまり、廣島は、出雲国を名実ともに代表する人物だったのです。
さて、『出雲国風土記』に十一の寺がみられます。
それぞれ、塔や「厳堂」(金堂)などの建物、建立した人、僧の有無などが記されました。
しかし、名前が分かるのは、教昊(きょうこう)という僧が、
ほかは、「新造院」とだけの記載です。
全国の風土記の中で『出雲国風土記』は、天平五年(七三三)に
こんなところにも、廣島の出雲国造としての反骨精神がみられるのかもしれません。
なお、意宇郡山代郷(松江市)の新造院とされる来見(くるみ)廃寺は、
⑱ 秋田県(あきたけん)
渟代蝦夷沙尼具那(ぬしろのえみしのさにぐな)
【最北の郡司となった蝦夷】
二百隻にも及ぶ軍船を繰り出し、行進、日本海を北上したのです。
とくに四年の遠征では、阿倍比羅夫の船団が、
齶田と渟代(能代市)の蝦夷たちは、肝を冷やして恭順してきました。
そこで齶田の蝦夷の代表(首長)だった恩荷(おが)に
小乙上(しょうおつじょう、従八位上(じゅはちいじょう))の冠位を授け、
渟代と津軽(青森県津軽か)の蝦夷たちを郡司に任命したのです。
比羅夫は、越国の国守でしたから、郡をたてる立案をしたり、
しかし郡をたてる決定権や郡司の任命権はありません。
ですから郡司の候補者となった恩荷や渟代と津軽の蝦夷たちは、
二百人余りの蝦夷とともに朝廷に招かれた恩荷らは、盛大にもてなされました。
そして、渟代郡大領(たいりょう)の沙尼具那(さにぐな)や少領(しょうりょう)の宇婆佐(うばさ)、
津軽郡の大領馬武(まむ)や少領青蒜(あおひる)、さらに彼らの従者に冠位が授けられました。
そのうえ、鮹旗(たこはた)、鼓(つづみ)、弓矢、鎧(よろい)といった武器が与えられたのです。
しかし、アメばかりではなく、ムチがありました。それは、人口調査を命じられたことです。
人口調査は、税を計画的かつ正確に収取する前提条件だからです。
国家に税を払う必要のなかった蝦夷たちは、こうして古代国家に取り込まれていったのでした。
⑰ 千葉県(ちばけん)
他田日奉部神護(おさだのひまつりべのじんご)
【海上郡の大領になりたかった男】
平城京の左京七条に住んでいた他田日奉部神護は、
五十代にさしかかったので、ふるさとの下総国海上郡(千葉県銚子市付近)に帰り、
大領になりたいと願い出ました。
その嘆願書が、奈良県の東大寺正倉院に残されています。
神後が、都の下級官人となったのは、養老二年(七一八)のことでした。
兵部卿(ひょうぶぎょう)である藤原房前(ふささき)について、
警固や雑務をおこなう資人(しじん)として仕えたのです。
房前は、大宝律令を選定した不比等の子、大化の改新で立ち上がった中臣鎌足の孫で、
藤原北家の祖となった人物です。
房前には、神亀五年(七二八)までの十年間仕えました。
その後、皇后や皇太后などを警備する中宮舎人(ちゅうぐうのとねり)として、
二十年間務めました。その間、神後は、長屋王の変、橘奈良麻呂の変、
そして天然痘の猛威にも直面したことでしょう。
元来、神後の家系は、海上郡の郡司の家系でした。
海上評(郡の前身)が建てられた孝徳朝の大化五年ころ、
祖父の忍(しのぶ)が次官の少領(しょうりょう)となり、天武朝には、父の宮麻呂が少領、
そして元明朝では、兄の国足が、大領として務めていました。
国足の跡を継ぐ子の死亡のような、事件が国元で起きたのでしょう。
急遽、大領を嘆願する必要が神後に訪れたのです。
神後の仕えた元明天皇が亡くなり、仲麻呂政権へ傾斜していったことも、
郡司へ転身しようとしたきっかけだったかもしれません。
郡司には、伝統的権威が残る国造家が優先的に選ばれました。
しかし、大領になるためには、国司の推挙や式部省の難しい試験に
合格しなければなりません。また、位階も必要でした。
そのいっぽう、資人や舎人として都で長年にわたり務めた功績も、
神後を大領とするには十分でした。
神後は、都から海上郡にUターンし、骨を埋めたことでしょう。
房総半島では、都でしか手に入れることのできない奈良三彩の壺や
灰釉陶器の短頸壺などが、しばしば墓跡から出土することがあります。
神後のような舎人が、故郷に戻り、故郷の墓に葬られた証でしょう。
⑯ 長崎県(ながさきけん)
長岑諸近(ながみねのもろちか)
【刀伊(とい)に拉致された高麗国からもどった男】
寛仁三年(一〇一九)三月二八日、刀伊が、対馬島を襲い、略奪の限りを尽くし、
続いて壱岐、そして筑後国の怡土(いと)、志摩、早良(さわら)、
肥前国の松浦の諸郡を襲い、風のように再び北の海に逃げました。
刀伊の悪行は、十六日間におよび、馬や牛、犬までも切っては食べ、
大人の男女は拉致し、老人と子供はことごとく切り殺したといいます。
死者三七〇人、捕虜一二八〇人、死んだ牛馬三九〇頭におよびました。
京の貴族、藤原実資(さねすけ)は、数奇な体験をした対馬の役人、
長岑諸近と対馬の住人、多治比阿古見(たじひのあこみ)の体験を
日記『小右記(しょうゆうき)』に記しています。
長岑諸近は、対馬の判官代(ほうがんだい)という地元の役人でしたが、
母、伯母、妹、妻子、従者ら十人余りとともに刀伊の海賊船に拉致されました。
刀伊は、九州北部に来襲すると再び対馬に立ち寄ったところ、
諸近だけが、すきを見て脱出に成功します。
しかし、家族を賊の船に残して逃げた諸近は、悔(く)やみに悔やみ、
ついに国禁を犯して小舟を盗み、高麗へ渡ったのです。
諸近は、通訳の仁礼(じんれい)を通して、家族を探しました。
しかし、伯母一人を助けるのが精いっぱいでした。
ちょうどそのころ、同じく対馬から連れ去られた多治比阿古見ら三十人が、
高麗の兵船に助けられ、釜山(プサン)付近に逗留していました。
このころ、日本は、鎖国をしていたわけではありませんが、
国府の役人が、かってに私事で外国に渡ることは、許されませんでした。
しかし諸近は、高麗国も刀伊の襲撃問題に手を焼き、
日本と共同歩調を望んでいることを朝廷に伝えました。
また、阿古見ら捕虜を連れ帰ることで、ようやく帰国できたのです。
⑮ 北海道(ほっかいどう)
伊奈理武志(いなりむし)
【朝廷に朝賀した渡嶋蝦夷:わたしまのえみし】
北海道の道央・道東に住む「渡嶋蝦夷」の伊奈理武志と、
沿海州に住む「粛慎(みしはせ)」の志良守叡草(しらすえそう)が、
飛鳥の二槻宮(ふたつきみや)を訪れ、持統天皇に謁見しました。
持統天皇十年(六九六)のことです。
伊奈理武志と志良守叡草は、日本の支配がまだ及ばない北方の地域から訪れた客人(まれびと)でした。
しかも、ただの客人ではありません。
「渡嶋蝦夷」と「粛慎」と呼ばれた地域集団の代表、族長として、
北海道からはるばる天皇の住む宮へ赴き、天皇に謁見したのです。
そこで天皇は、錦袍袴(にしきのきぬはかま)・緋縹絁(ひはなだのふとぎぬ)・斧などを賜りました。
錦袍袴は、模様を織り込んだ絹で作った上着と袴、緋縹絁は、
赤と縹色(薄い藍色)の太織りの絹、そして鉄の斧でした。
文明との接触は、二人にとって驚異的だったでしょう。
二人は、錦袍袴を身につけ、渡嶋や粛慎に凱旋したはずです。
また、持ち帰った斧は、宝物として大切に保管されました。
鉄製品は、このころの北海道では、作っていなかったからです。
ですから、持ち主とくに男性が死亡すると、大切に墓へ副葬されました。
この墓は、江別市や恵庭市などで、北海道式古墳、東北地方北部では末期古墳と呼ばれます。
径三~七メートルで高さ一メートルにも満たない小さな古墳が、群集することが特徴です。
その墓には、斧や鋤の先、鎌、蕨手刀(蕨のような形の持ち手のある刀)、
勾玉など本州島の文物が、副葬されました。
そのなかには、律令国家の官人が腰にしめた帯の飾り金具までありました。
この金具は、陸奥・出羽国の官人と接触したか、この帯を下賜された人物がいたことを物語っています。
⑭ 富山県(とやまけん)
利波臣志留志(となみのおみしるし)
【礪波の豪族から伊賀国司となった男】
天平十五年(七四三)、聖武天皇は、奈良の東大寺に大仏をつくる詔を出します。
しかし、度重なる造都、疫病や飢饉などで国家財政は瀕死の重傷でした。
もともと古代国家には、大仏はおろか、東大寺を運営する財源などありませんでした。
そこで、目を付けたのが、地方豪族の持つ莫大な富と労働編成力でした。
古代国家は、東大寺に五〇〇〇町という途方もない開発許可権を与え、
土地や財源、労働力を提供してくれた地域の豪族に位を与え、
その開発と運営を担わせたのです。
墾田永年私財法が、同じ年に出されたのは、
このシステムを円滑に進めるためのアイデアでした。
砺波平野に基盤を持つ利波臣志留志もその一人でした。
志留志は、天平十九年(七四七)、大仏をつくるために三〇〇〇石の米を寄進しました。
奈良時代の倉庫の規模からすると、志留志の家に三〇〇〇石の米が、
そのまま備蓄されていたとは考えられません。
志留志のもついくつかの経営拠点(「宅(やけ)」)に分置されていたか、
買得して揃えたのでしょう。
そして、志留志は、外従五位下(げじゅごいのげ)を授けられます。
利波臣は、越中国(えっちゅうこく)きっての名族でした。
『古事記』や『越中石黒系図』『越中国官倉納穀交替記』などに登場し、
数世紀にわたって礪波(となみ)郡を牛耳っていた一族だったのです。
ただ志留志は、傍流だったらしく、天平神護元年(七六五)、
仲麻呂政権が瓦解すると、墾田百町を東大寺に寄進し、
中央官人としての道を歩み出しました。
翌年、越中国司の一人として、東大寺の荘園の運営状況を視察に来ています。
その後、志留志は、仲麻呂政権や道鏡政権を巧みに渡り、
東大寺ととても関係の深い伊賀国(いがこく)の介(すけ)になるまで、
中央下級官人として生き抜いたのでした。
⑬ 岩手県(いわてけん)
大墓公阿弖利為(たものきみあてるい)
【古代国家に狼煙〈のろし〉を上げた蝦夷】
古代国家は、飛鳥時代以降、まず文物の交流を通じて、蝦夷の社会に触手を伸ばしました。
蝦夷が、貢ぎ物を送り、国家が祝宴や贈り物、位(くらい)を授けるという交流は、
次第に貢ぎ物が税となり、服従の証しとなっていきます。
しかし、当然のように税を求める国家と、その義務を不当とする蝦夷との間で摩擦が生じました。
神亀元年(七二四)以降、陸奥国司の殺害、
伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)の乱などの事件となりました。
阿弖利(流)為(あてるい)が、政府軍との戦いに加わり、
戦闘能力を高めていったのは、砦麻呂の乱ごろでしょう。
勇猛果敢な阿弖利為の活躍は、次第に彼を蝦夷のリーダーとしていきます。
そして、延暦八年(七八九)の胆沢の合戦で、政府軍を撃退するまでに成長したのです。
阿弖利為は、四〇〇〇人の政府軍を敵に回し、ゲリラ戦で壊滅的打撃を与えました。
北上川の左岸に家を構える阿弖利為は、周囲の地形をよく知り、
相手の軍勢を急峻で狭い路に誘い込むと、矢を射こみました。
重い甲冑(かっちゅう)を付けた兵士は、ことごとく北上川に沈んだといいます。
政府軍は、二六〇〇人余りを失いましたが、
蝦夷も十四村八百余棟を焼かれるなど甚大な被害となりました。
その後、延暦十年(七九一)、延暦十六年(七九七)と、
政府軍は遠征しましたが、決着がつきません。
胆沢(いさわ)平野は荒廃し、蝦夷たちは疲弊しました。
そして、延暦二十年(八〇一)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の登場によって、
ついに阿弖利為は、蝦夷の戦士五〇〇人を率いて投降したのです。
田村麻呂は、阿弖利為らを丁重にもてなすと、都へ連れて上りました。
阿弖利為の統治能力は、これからの蝦夷支配には欠かせないと、
田村麻呂は、貴族たちに助命嘆願をしました。
しかし、貴族たちは、「虎を養って余計な心配を残す」と、斬首の刑としたのでした。
そして翌年、奥州市に胆沢城(いさわじょう)が築かれたのです。
⑫ 佐賀県(さがけん)
山春永(やまのはるなが)
【新羅に渡ろうとした豪族たち】
『日本三代実録』によると、基肄(きい)郡(鳥栖市)の郡司、
新羅国へ渡って、新式の兵器を習い、新羅人とともに対馬を攻撃しようとしていたことが、発覚したのです。
それは、この計画を進めるため春永が、
豊穂があわてて大宰府に報告したのです。
大宰府は、事の重大さに驚き、京の都へ向けて火急の使者を駆けさせました。
朝廷は、どのような処罰を下したのか、明らかではありません。
おそらく烽火の点検や山城の強化などが行われたことでしょう。
さて、この新羅密航計画に加わった者は、
高来(たかぎ)郡(長崎県島原市・諫早市)の擬大領(ぎたいりょう)大刀主(たちのぬし)、
彼杵(そのき)郡(長崎市・佐世保市・大村市)の永岡藤津(ながおかのふじつ)の
この計画は、新羅の商人、珎寶長(ちんほうちょう)が持ちかけた話でした。
彼は、玄界灘沿岸の郡や博多などの公式ルートを経由せず、
この計画に参画したのが、筑後川から有明海、島原湾、橘湾、角力(すもう)灘に広がる地域の郡司たちでした。
壱岐や対馬と直結する肥前国松浦郡や筑前国志麻郡などは、含まれませんでした。
かれらは、新羅国へ渡り新式の「弩(ど)」の取り扱い方を習い、対馬国を攻撃し、占領しようとしたのです。
「弩」は、「おおゆみ」、「いしゆみ」ともいい、発射装置のついたボーガンのような武器です。
日本では、各国府に備えられ、陸奥や出羽などの城柵では、弩を用いた演習も行われていました。
この事件以後、弩の射手四十五人の名を連ねた名簿が、大宰府へ進められたといいます。
筑紫君磐井をはじめ、藤原広嗣、そして藤原純友など九州北部の人々は、
国家とは別のネットワークを朝鮮半島の人々との間にもち続けていたのです。
⑪ 群馬県(ぐんまけん)
上毛野朝臣三千(かみつけぬのあそんみちち)
【大富豪の歴史を記した男】
⑩ 奈良県(ならけん)
葛城長江曽都毘古(かつらきのながえのそつひこ)
【実在した最古の豪族】
古代王権を構成した中央豪族の葛城氏にかかわる古墳です。
葛城氏の中でも葛城の長江に住む曽都毘古は、
『日本書紀』や『古事記』あるいは『百済本記』などに登場し、
実在した最古の豪族といわれています。
曽都毘古は、四世紀末から五世紀初めに新羅との外交や戦争で、
古代王権の代表として活躍した人です。
曽都毘古は、新羅の人質を送り返す途中、人質が逃げたので、
新羅で戦い、蹈鞴津(たたらつ)や草羅城を落し、捕虜を倭国へ連れて帰りました。
そして、曽都毘古は、葛城の桑原、佐糜(さび)、高宮、忍海という村を作り、
新羅の人々を住まわせました。
そのひとつ、高宮邑(むら)(葛上郡高宮郷、〈御所市長柄〉)に
営まれた豪族の家が、発掘調査されています。長柄遺跡です。
二列の石垣とそれに挟まれた濠の中からは、刀の束や剣の鞘、弓などの武器、
機織りの道具、鍬や鋤などの農工具、漆を充填した壺などが出土しました。
また石垣に囲まれた内側では、鉄製品を作ったり、
青緑色の石を加工したアクセサリーなども作られたりしていました。
また、桑原邑(葛上郡桑原郷、〈御所市南郷〉)にあたる南郷遺跡群では、
住居群や倉庫群、工房群、祭祀施設などが発見されています。
なかでも南郷安田(やしだ)遺跡では、
全国で最大の規模をほこる建物跡が発見されました。
周りに縁をめぐらせた重層の高殿とされます。
また、南郷大東遺跡では、小河川にダムを築き、そこから浄水を樋管で導びいて、
覆い屋の建物の中を浄水が通り抜けるという類い稀な施設が発見されています。
なお、室大墓といわれる宮山古墳(全長二三八メートル、前方後円墳)が、
近年発掘調査され、出土した朝鮮半島南部の土器や大型の石棺、大型船の埴輪などから、
曽都毘古の墓ではないかといわれています。
⑨ 神奈川県(かながわけん)
漆部直伊波(うるしべのあたいいわ)
【遠隔地交易を行った豪族】
「調邸(ちょうてい)」という在京事務所を設けていました。
調邸は、相模国の特産物を平城京の東西市で交換するための施設でした。
その「調邸」と相模国を行き来した下級官人に漆部直伊波がいました。
伊波は、相模国内で集められた税金の調を運ぶばかりではなく、
調以外の手工業品や加工食品などを都へ運び、市を通じて売買し、
その利益で莫大(ばくだい)な富を築いていたのでした。
そもそも平城京には、都の中心を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)を挟んで、
東西に公設の「市」が設けられていました。
市では、時価に応じた取引が行われ、
肆(いちくら)と呼ばれる店舗で売買されていたのです。
肆には、絁(あしぎぬ)、羅(ら)、糸、布、綿(まわた)などの繊維製品、
櫛、針、筆、墨、薬などの日用品、大刀、弓、箭(や)などの武器、
米、麦、塩、醬(しょう)、
索餅(そうめん)・海藻(わかめ)・菓子・干魚(ほしざかな)・生魚などの食料品、
金属、染料、油、木器、そして牛馬までが売られていました。
いっぽう、相模国では、布、綿、蜜柑、薬草、木材、紙の原料、
硫黄、鰒(あわび)、鰹、海草などが、税として集められ、都に運ばれていました。
相模国調邸は、これらの過不足を東西市で調整するための機能を持っていたのでしょう。
天平勝宝七年(七五五)、この相模国調邸が、東大寺に売却されます。
その売買契約書が、東大寺の正倉院に残っています。
東大寺は、たくさんの僧侶や写経師、官人を抱える巨大組織でしたから、
東西市に隣接したこの土地に物品をストックする倉庫や事務所を建て、
商業活動を行ったのです。
伊波はその後、東大寺の下級官人としても活躍していくのでした。
⑧ 三重県(みえけん)
飯高諸高(いいたかのもろたか)
【四人の天皇に仕えた水銀王の娘】
⑦ 沖縄県(おきなわけん)
鳥了帥(ちょうりょうすい)
【ヤコウガイを手にした豪族】
⑥ 鳥取県(とっとりけん)
伊福吉部徳足比売(いおきべのとこたりひめ)
【薄命の采女〈うねめ〉】
飛鳥時代の末、鳥取県から藤原京に采女として召された
⑤ 宮城県(みやぎけん)
道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)
【陸奥の豪族から都の貴族となった男】
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱をきっかけとして、
④ 愛媛県(えひめけん)
越智常世(おちのつねよ)
【平安の相撲人(すまいびと)】
平安時代、旧暦七月下旬、宮中で相撲の節会が行われました。
全国各地から力自慢の男たちが、国司によって集められ、
伊予国からも越智郡から、越智常世という猛者が都に召されました。
常世は、永延元年(九八七)、「助手(すけて)」として史料に登場します。
助手とは、大関にあたります。
その一三年後には、横綱にあたる「最手(ほて)」として全盛期を迎えます。
その常世に怪力でならした助手の御春時正(みはるのときまさ)が挑戦しました。
常世は接戦の末、からくも時正をねじ伏せることができました。
これを見ていた貴族たちは、口々に「神妙」と叫んだそうです。
また、久光(ひさみつ)という相撲人は、長く伸ばした爪で
常世をひっかいて攻撃しましたが、常世が張り手で頭を突くと、
久光は気絶しました。
貴族たちは、久光に再挑戦させようとしましたが、
久光は「もうこりごりだ。牢屋に入れてください。牢屋なら命を失いません」と、
逃げ回ったといいます。
「天下の一物」といわれた常世は、五三歳まで最手を務めましたが、
寄る年波には勝てず、また落馬してけがをしたので、
今年の相撲節会を欠場したいと申し出ました。
このとき左大臣の藤原道長は、常世のことを「頭白く髪無し」とけなしています。
ところで、NHKの相撲中継では、力士の出身地を放送します。
今も昔も変わらず、国司に率いられた常世のような猛者が、
国や故郷を代表して大一番に挑んだことでしょう。
③ 埼玉県(さいたまけん)
物部連兄麿(もののべのむらじえまろ)
【聖徳太子に仕えた舎人】
埼玉古墳群のある行田市には、「関東の石舞台」といわれる古墳があります。
② 宮崎県(みやざきけん)
藤原保昌(ふじわらやすまさ)
【豪腕を振るう日向の守】
藤原道長が、摂関政治の絶頂にあったころ、
① 石川県(いしかわけん)
能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)
【北方の人々と戦った男】
蘇我氏を倒した改新政府は、列島の南北にどのような人々が住むのか、
探検隊を派遣しました。
斉明天皇六年(六六〇)三月、北海道に阿倍比羅夫が、
二〇〇艘(隻)の船団を率いて肅慎(みしはせ)と呼ばれた人々を
訪ねる旅に出かけたのです。
その船団に能登臣馬身龍がいました。
馬身龍は、能登半島に基盤をもつ豪族でした。
能登には、奈良時代に下りますが、舟木秋麻呂(ふなきのあきまろ)、
舟木部積万呂(ふなきべのつみまろ)、舟木部申(ふなきべのさる)など
船にかかわる人々が住んでいました。
能登の人々が、操船や造船の技術に長けていたことがわかります。
また、能登は、塩作りが盛んで、魚介の塩漬けが作られ、
朝廷に貢納されていました。
なお、この塩作りや造船が、能登から越後や佐渡へ伝わるなど、
能登と越後は、盛んに交流していました。
そこで比羅夫は、馬身龍たちの日本海交易のルートを用いて、
さらに北の人々との接触を試みたのです。
しかし、平和な貿易交渉は成立せず、戦いとなり馬身龍は、
肅慎たちが築いた弊賂辨嶋(へろべのしま、場所は不詳)の
柵の戦いで、討たれてしまいました。
七尾湾に浮かぶ能登島には、馬身龍の墓とされる蝦夷穴古墳があります。
小高い丘を登りつめると、資料館の先に小形の方墳が築かれています。
朝日に輝く七尾湾を望む蝦夷穴古墳には、
二体の棺を置く高句麗系の横穴式石室が築かれました。
高句麗からの使者が、たびたび訪れた能登では、
応対に能登臣があたったことでしょう。
蝦夷穴古墳は、能登と高句麗との交流も考えられる古墳です。