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連載・読み物

都道府県別 古代豪族の話   著:田中広明(たなかひろあき)

⑰ 千葉県(ちばけん)

他田日奉部神護(おさだのひまつりべのじんご)

【海上郡の大領になりたかった男】


城京の左京七条に住んでいた他田日奉部神護は、
五十代にさしかかったので、ふるさとの下総国海上郡(千葉県銚子市付近)に帰り、
大領になりたいと願い出ました。
その嘆願書が、奈良県の東大寺正倉院に残されています。

 
後が、都の下級官人となったのは、養老二年(七一八)のことでした。
兵部卿(ひょうぶぎょう)である藤原房前(ふささき)について、
警固や雑務をおこなう資人(しじん)として仕えたのです。

 
前は、大宝律令を選定した不比等の子、大化の改新で立ち上がった中臣鎌足の孫で、
藤原北家の祖となった人物です。
房前には、神亀五年(七二八)までの十年間仕えました。
 
 
の後、皇后や皇太后などを警備する中宮舎人(ちゅうぐうのとねり)として、
二十年間務めました。その間、神後は、長屋王の変、橘奈良麻呂の変、
そして天然痘の猛威にも直面したことでしょう。

 
来、神後の家系は、海上郡の郡司の家系でした。
海上評(郡の前身)が建てられた孝徳朝の大化五年ころ、
祖父の忍(しのぶ)が次官の少領(しょうりょう)となり、天武朝には、父の宮麻呂が少領、
そして元明朝では、兄の国足が、大領として務めていました。
国足の跡を継ぐ子の死亡のような、事件が国元で起きたのでしょう。
急遽、大領を嘆願する必要が神後に訪れたのです。
神後の仕えた元明天皇が亡くなり、仲麻呂政権へ傾斜していったことも、
郡司へ転身しようとしたきっかけだったかもしれません。

 
司には、伝統的権威が残る国造家が優先的に選ばれました。
しかし、大領になるためには、国司の推挙や式部省の難しい試験に
合格しなければなりません。また、位階も必要でした。
そのいっぽう、資人や舎人として都で長年にわたり務めた功績も、
神後を大領とするには十分でした。

 
後は、都から海上郡にUターンし、骨を埋めたことでしょう。
房総半島では、都でしか手に入れることのできない奈良三彩の壺や
灰釉陶器の短頸壺などが、しばしば墓跡から出土することがあります。
神後のような舎人が、故郷に戻り、故郷の墓に葬られた証でしょう。



⑯ 長崎県(ながさきけん)

長岑諸近(ながみねのもろちか)

【刀伊(とい)に拉致された高麗国からもどった男】


仁三年(一〇一九)三月二八日、刀伊が、対馬島を襲い、略奪の限りを尽くし、
続いて壱岐、そして筑後国の怡土(いと)、志摩、早良(さわら)、
肥前国の松浦の諸郡を襲い、風のように再び北の海に逃げました。
刀伊の悪行は、十六日間におよび、馬や牛、犬までも切っては食べ、
大人の男女は拉致し、老人と子供はことごとく切り殺したといいます。
死者三七〇人、捕虜一二八〇人、死んだ牛馬三九〇頭におよびました。

 
の貴族、藤原実資(さねすけ)は、数奇な体験をした対馬の役人、
長岑諸近と対馬の住人、多治比阿古見(たじひのあこみ)の体験を
日記『小右記(しょうゆうき)』に記しています。

長岑諸近は、対馬の判官代(ほうがんだい)という地元の役人でしたが、
母、伯母、妹、妻子、従者ら十人余りとともに刀伊の海賊船に拉致されました。
刀伊は、九州北部に来襲すると再び対馬に立ち寄ったところ、
諸近だけが、すきを見て脱出に成功します。

 
かし、家族を賊の船に残して逃げた諸近は、悔(く)やみに悔やみ、
ついに国禁を犯して小舟を盗み、高麗へ渡ったのです。
諸近は、通訳の仁礼(じんれい)を通して、家族を探しました。
しかし、伯母一人を助けるのが精いっぱいでした。
ちょうどそのころ、同じく対馬から連れ去られた多治比阿古見ら三十人が、
高麗の兵船に助けられ、釜山(プサン)付近に逗留していました。

 
のころ、日本は、鎖国をしていたわけではありませんが、
国府の役人が、かってに私事で外国に渡ることは、許されませんでした。
しかし諸近は、高麗国も刀伊の襲撃問題に手を焼き、
日本と共同歩調を望んでいることを朝廷に伝えました。
また、阿古見ら捕虜を連れ帰ることで、ようやく帰国できたのです。

⑮ 北海道(ほっかいどう)

伊奈理武志(いなりむし)

【朝廷に朝賀した渡嶋蝦夷:わたしまのえみし】


海道の道央・道東に住む「渡嶋蝦夷」の伊奈理武志と、
沿海州に住む「粛慎(みしはせ)」の志良守叡草(しらすえそう)が、
飛鳥の二槻宮(ふたつきみや)を訪れ、持統天皇に謁見しました。
持統天皇十年(六九六)のことです。
伊奈理武志と志良守叡草は、日本の支配がまだ及ばない北方の地域から訪れた客人(まれびと)でした。

 かも、ただの客人ではありません。
「渡嶋蝦夷」と「粛慎」と呼ばれた地域集団の代表、族長として、
北海道からはるばる天皇の住む宮へ赴き、天皇に謁見したのです。
そこで天皇は、錦袍袴(にしきのきぬはかま)・緋縹絁(ひはなだのふとぎぬ)・斧などを賜りました。
錦袍袴は、模様を織り込んだ絹で作った上着と袴、緋縹絁は、

赤と縹色(薄い藍色)の太織りの絹、そして鉄の斧でした。

 明との接触は、二人にとって驚異的だったでしょう。
二人は、錦袍袴を身につけ、渡嶋や粛慎に凱旋したはずです。
また、持ち帰った斧は、宝物として大切に保管されました。
鉄製品は、このころの北海道では、作っていなかったからです。
ですから、持ち主とくに男性が死亡すると、大切に墓へ副葬されました。

 の墓は、江別市や恵庭市などで、北海道式古墳、東北地方北部では末期古墳と呼ばれます。

径三~七メートルで高さ一メートルにも満たない小さな古墳が、群集することが特徴です。
その墓には、斧や鋤の先、鎌、蕨手刀(蕨のような形の持ち手のある刀)、

勾玉など本州島の文物が、副葬されました。
 
 のなかには、律令国家の官人が腰にしめた帯の飾り金具までありました。
この金具は、陸奥・出羽国の官人と接触したか、この帯を下賜された人物がいたことを物語っています。

⑭ 富山県(とやまけん)

利波臣志留志(となみのおみしるし)

礪波の豪族から伊賀国司となった男


平十五年(七四三)、聖武天皇は、奈良の東大寺に大仏をつくる詔を出します。
しかし、度重なる造都、疫病や飢饉などで国家財政は瀕死の重傷でした。
もともと古代国家には、大仏はおろか、東大寺を運営する財源などありませんでした。
そこで、目を付けたのが、地方豪族の持つ莫大な富と労働編成力でした。

 
代国家は、東大寺に五〇〇〇町という途方もない開発許可権を与え、
土地や財源、労働力を提供してくれた地域の豪族に位を与え、
その開発と運営を担わせたのです。
墾田永年私財法が、同じ年に出されたのは、
このシステムを円滑に進めるためのアイデアでした。

 
波平野に基盤を持つ利波臣志留志もその一人でした。
志留志は、天平十九年(七四七)、大仏をつくるために三〇〇〇石の米を寄進しました。
奈良時代の倉庫の規模からすると、志留志の家に三〇〇〇石の米が、
そのまま備蓄されていたとは考えられません。
志留志のもついくつかの経営拠点(「宅(やけ)」)に分置されていたか、
買得して揃えたのでしょう。
そして、志留志は、外従五位下(げじゅごいのげ)を授けられます。

 
波臣は、越中国(えっちゅうこく)きっての名族でした。
『古事記』や『越中石黒系図』『越中国官倉納穀交替記』などに登場し、
数世紀にわたって礪波(となみ)郡を牛耳っていた一族だったのです。
ただ志留志は、傍流だったらしく、天平神護元年(七六五)、
仲麻呂政権が瓦解すると、墾田百町を東大寺に寄進し、
中央官人としての道を歩み出しました。
翌年、越中国司の一人として、東大寺の荘園の運営状況を視察に来ています。

 
の後、志留志は、仲麻呂政権や道鏡政権を巧みに渡り、
東大寺ととても関係の深い伊賀国(いがこく)の介(すけ)になるまで、
中央下級官人として生き抜いたのでした。

⑬ 岩手県(いわてけん)

大墓公阿弖利為(たものきみあてるい)

【古代国家に狼煙〈のろし〉を上げた蝦夷】


 古代国家は、飛鳥時代以降、まず文物の交流を通じて、蝦夷の社会に触手を伸ばしました。

蝦夷が、貢ぎ物を送り、国家が祝宴や贈り物、位(くらい)を授けるという交流は、

次第に貢ぎ物が税となり、服従の証しとなっていきます。

しかし、当然のように税を求める国家と、その義務を不当とする蝦夷との間で摩擦が生じました。

神亀元年(七二四)以降、陸奥国司の殺害、

伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)の乱などの事件となりました。


 阿弖利(流)為(あてるい)が、政府軍との戦いに加わり、

戦闘能力を高めていったのは、砦麻呂の乱ごろでしょう。

勇猛果敢な阿弖利為の活躍は、次第に彼を蝦夷のリーダーとしていきます。

そして、延暦八年(七八九)の胆沢の合戦で、政府軍を撃退するまでに成長したのです。


 阿弖利為は、四〇〇〇人の政府軍を敵に回し、ゲリラ戦で壊滅的打撃を与えました。

北上川の左岸に家を構える阿弖利為は、周囲の地形をよく知り、

相手の軍勢を急峻で狭い路に誘い込むと、矢を射こみました。

重い甲冑(かっちゅう)を付けた兵士は、ことごとく北上川に沈んだといいます。

政府軍は、二六〇〇人余りを失いましたが、

蝦夷も十四村八百余棟を焼かれるなど甚大な被害となりました。


 その後、延暦十年(七九一)、延暦十六年(七九七)と、

政府軍は遠征しましたが、決着がつきません。

胆沢(いさわ)平野は荒廃し、蝦夷たちは疲弊しました。

そして、延暦二十年(八〇一)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の登場によって、

ついに阿弖利為は、蝦夷の戦士五〇〇人を率いて投降したのです。


 田村麻呂は、阿弖利為らを丁重にもてなすと、都へ連れて上りました。

阿弖利為の統治能力は、これからの蝦夷支配には欠かせないと、

田村麻呂は、貴族たちに助命嘆願をしました。

しかし、貴族たちは、「虎を養って余計な心配を残す」と、斬首の刑としたのでした。


 そして翌年、奥州市に胆沢城(いさわじょう)が築かれたのです。

⑫ 佐賀県(さがけん)

山春永(やまのはるなが)

【新羅に渡ろうとした豪族たち】


 観八年(八六六)七月十五日、大宰府から驚愕の事件が報告されました。
『日本三代実録』によると、基肄(きい)郡(鳥栖市)の郡司、
山春永(やまのはるなが)をはじめとする四十五人が、
新羅国へ渡って、新式の兵器を習い、新羅人とともに対馬を攻撃しようとしていたことが、発覚したのです。

 れは、この計画を進めるため春永が、
同じ郡の川邊豊穂(かわべのとよほ)に相談を持ちかけたところ、
豊穂があわてて大宰府に報告したのです。
大宰府は、事の重大さに驚き、京の都へ向けて火急の使者を駆けさせました。
朝廷は、どのような処罰を下したのか、明らかではありません。
おそらく烽火の点検や山城の強化などが行われたことでしょう。

 て、この新羅密航計画に加わった者は、
春永のほかに藤津(ふじつ)郡(鹿島市)の郡領(ぐんりょう)葛津貞津(ふじつのさだつ)、
高来(たかぎ)郡(長崎県島原市・諫早市)の擬大領(ぎたいりょう)大刀主(たちのぬし)、
彼杵(そのき)郡(長崎市・佐世保市・大村市)の永岡藤津(ながおかのふじつ)の
あわせて四人がわかっています。いずれもみな郡司や郡司に匹敵する豪族たちです。

 の計画は、新羅の商人、珎寶長(ちんほうちょう)が持ちかけた話でした。
彼は、玄界灘沿岸の郡や博多などの公式ルートを経由せず、
有明海等の諸郡と直接、私貿易を行っていたようです。
この計画に参画したのが、筑後川から有明海、島原湾、橘湾、角力(すもう)灘に広がる地域の郡司たちでした。
壱岐や対馬と直結する肥前国松浦郡や筑前国志麻郡などは、含まれませんでした。

 れらは、新羅国へ渡り新式の「弩(ど)」の取り扱い方を習い、対馬国を攻撃し、占領しようとしたのです。
「弩」は、「おおゆみ」、「いしゆみ」ともいい、発射装置のついたボーガンのような武器です。
日本では、各国府に備えられ、陸奥や出羽などの城柵では、弩を用いた演習も行われていました。
この事件以後、弩の射手四十五人の名を連ねた名簿が、大宰府へ進められたといいます。

 紫君磐井をはじめ、藤原広嗣、そして藤原純友など九州北部の人々は、
国家とは別のネットワークを朝鮮半島の人々との間にもち続けていたのです。



⑪ 群馬県(ぐんまけん)

上毛野朝臣三千(かみつけぬのあそんみちち)

【大富豪の歴史を記した男】


 つて群馬県は、上毛野国(かみつけぬのくに)と呼ばれ、
上毛野君(かみつけぬのきみ)という大豪族が住んでいました。
それを裏付けるように、八千基を超える古墳や東日本最大の前方後円墳が、
群馬県には造られました。
 
 の上毛野君をめぐる数々の逸話が、『日本書紀』に登場します。
それは、上毛野君の出自の話、蝦夷との戦いの話、
朝鮮半島への出兵の話などです。
これらの話は、『日本書紀』の編纂にかかわった
上毛野朝臣三千(かみつけぬのきみみちち)が、
自らの家の歴史を盛り込んだからでしょう。
『日本書紀』には、持統天皇五年(六九一)、
この国を支えてきた十八の豪族に、それぞれの家の歴史を記した
『墓記』を提出させたとあります。
 
 千は、白村江の戦で朝鮮半島にわたった上毛野君稚子(わくご)、
舒明天皇のころ蝦夷征討に向かった上毛野君形名(かたな)、
武蔵国造の乱にかかわった上毛野君小熊(おぐま)などは、
生々しい記憶として『墓記』に盛り込んだことでしょう。
また、上毛野君が豊城入彦命を先祖とすることやその子や孫の八綱田(やつなだ)王、
彦狭島王(ひこさしまおう)、御諸別王(みもろわけおう)などが、
東国を治めた将軍という伝承もあります。
 
 かし、意外にも小熊を除くと、上毛野国にかかわる事績は
『日本書紀』などに書き残されていないのです。
すでに稚子や三千のころには、
都へ上って官人となったためでしょうか。
けれども、上毛野氏は、上毛野国に絶大な権力と経済力を保ち続けていたのです。
六世紀末以降から、前橋市総社町には二子山古墳、
愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳を築き、
三千のころ、山王廃寺という白鳳寺院を建てたのです。
 
 の後も、勢多郡(前橋市)の大領、上毛野朝臣足人(たると)が、
上野国分寺の建立にあたり、自らの莫大な財物を提供し、
外従五位下(げじゅごいのげ)を賜わるなど、その勢いは衰えませんでした。



⑩ 奈良県(ならけん)

葛城長江曽都毘古(かつらきのながえのそつひこ)

【実在した最古の豪族】


 和盆地の南西、葛城地域には、たくさんの古墳があります。

古代王権を構成した中央豪族の葛城氏にかかわる古墳です。

葛城氏の中でも葛城の長江に住む曽都毘古は、

『日本書紀』や『古事記』あるいは『百済本記』などに登場し、

実在した最古の豪族といわれています。

 

都毘古は、四世紀末から五世紀初めに新羅との外交や戦争で、

古代王権の代表として活躍した人です。

曽都毘古は、新羅の人質を送り返す途中、人質が逃げたので、

新羅で戦い、蹈鞴津(たたらつ)や草羅城を落し、捕虜を倭国へ連れて帰りました。

そして、曽都毘古は、葛城の桑原、佐糜(さび)、高、忍海という村を作り、

新羅の人々を住まわせました。

 

のひとつ、高邑(むら)(葛上郡高郷、〈御所市長柄〉)に

営まれた豪族の家が、発掘調査されています。長柄遺跡です。

二列の石垣とそれに挟まれた濠の中からは、刀の束や剣の鞘、弓などの武器、

機織りの道具、鍬や鋤などの農具、漆を充填した壺などが出土しました。

また石垣に囲まれた内側では、鉄製品を作ったり、

青緑色の石を加工したアクセサリーなども作られたりしていました。

 

た、桑原邑(葛上郡桑原郷、〈御所市南郷〉)にあたる南郷遺跡群では、

住居群や倉庫群、房群、祭祀施設などが発見されています。

なかでも南郷安田(やしだ)遺跡では、

全国で最大の規模をほこる建物跡が発見されました。

周りに縁をめぐらせた重層の高殿とされます。

また、南郷大東遺跡では、小河川にダムを築き、そこから浄水を樋管で導びいて、

覆い屋の建物の中を浄水が通り抜けるという類い稀な施設が発見されています。

 

お、室大墓といわれる山古墳(全長二三八メートル、前方後円墳)が、

近年発掘調査され、出土した朝鮮半島南部の土器や大型の石棺、大型船の埴輪などから、

曽都毘古の墓ではないかといわれています。




⑨ 神奈川県(かながわけん)

漆部直伊波(うるしべのあたいいわ)

【遠隔地交易を行った豪族】


 良時代前半、相模国は、平城京に

「調邸(ちょうてい)」という在京事務所を設けていました。

調邸は、相模国の特産物を平城京の東西市で交換するための施設でした。

その「調邸」と相模国を行き来した下級官人に漆部直伊波がいました。

伊波は、相模国内で集められた税金の調を運ぶばかりではなく、

調以外の手工業品や加工食品などを都へ運び、市を通じて売買し、

その利益で莫大(ばくだい)な富を築いていたのでした。

 

もそも平城京には、都の中心を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)を挟んで、

東西に公設の「市」が設けられていました。

市では、時価に応じた取引が行われ、

肆(いちくら)と呼ばれる店舗で売買されていたのです。

 

には、絁(あしぎぬ)、羅(ら)、糸、布、綿(まわた)などの繊維製品、

櫛、針、筆、墨、薬などの日用品、大刀、弓、箭(や)などの武器、

米、麦、塩、醬(しょう)、

索餅(そうめん)・海藻(わかめ)・菓子・干魚(ほしざかな)・生魚などの食料品、

金属、染料、油、木器、そして牛馬までが売られていました。

 

っぽう、相模国では、布、綿、蜜柑、薬草、木材、紙の原料、

硫黄、鰒(あわび)、鰹、海草などが、税として集められ、都に運ばれていました。

相模国調邸は、これらの過不足を東西市で調整するための機能を持っていたのでしょう。

 

平勝宝七年(七五五)、この相模国調邸が、東大寺に売却されます。

その売買契約書が、東大寺の正倉院に残っています。

東大寺は、たくさんの僧侶や写経師、官人を抱える巨大組織でしたから、

東西市に隣接したこの土地に物品をストックする倉庫や事務所を建て、

商業活動を行ったのです。

 

波はその後、東大寺の下級官人としても活躍していくのでした。





⑧ 三重県(みえけん)

飯高諸高(いいたかのもろたか)

【四人の天皇に仕えた水銀王の娘】


 明天皇、聖武天皇、孝謙・称徳天皇、淳仁天皇の
四人の天皇に仕えた飯高諸高は、采女(うねめ)中の采女と呼ばれました。
采女は、全国の郡司の娘から、とくに容姿端麗な理知的な女性が、
選りすぐられ、宮内省の女官となりました。
江戸時代の大奥と違うのは、あくまでも女性の役人だったことです。
 
 て、諸高は、伊勢国飯高郡の郡司の娘に生まれました。
飯高郡を流れる櫛田川流域の丹生郷(多気郡勢和村丹生)では、
古くから水銀の採掘が盛んで、諸高の家は、水銀王の家でした。
水銀は、辰砂(しんしゃ)とよぶ硫黄と水銀の化合物で
深紅色をした鉱石として採掘され、それを焼いて取りだします。
 
 して水銀は、金属と合金を作ることが容易なため、
金や銀の鉱石から、金や銀を取り出し、
また沸騰させて水銀を飛ばして金鍍金(メッキ)や銀鍍金を行うのです。
水銀は、金銀装飾品、仏像の鍍金などには、なくてはならない魔法の金属でした。
 
 のため、伊勢国の特産物として、
毎年、四〇〇斤が朝廷の内蔵寮(くらりょう〈財産管理を行う役所〉)へ、
十八斤が典薬寮(てんやくりょう〈薬の生産や管理をする役所〉)に納められました。
税としてだけではなく、私的な採掘も盛んで、
諸高の家は、そうした水銀採掘によって潤っていたのです。
 
 はいうものの、諸高が、最高の女官として宮中で働き、
政争渦巻く激動の奈良時代を生き抜いた「スーパー女官」で
あったことに違いはありません。ただ、地方豪族の娘が、
「性甚謙謹(しょうじんけんきん)・志慕貞潔(しぼていけつ)・典従三位(てんじゅさんみ)」
という高位に上りつめたのは、親の経済力ばかりではありません。
元正天皇や元明天皇を慕い、二人の眠る奈保(なお)山に葬られたことが示すように、
仏教に帰依し、個人的にも深いつながりがあったためでしょう。
 
 お、飯高郡には、水銀王の子孫、飯高宿諸氏(いいたかのすくねもろうじ)の
建てた近長谷寺(きんちょうこくじ)という寺が、今でも法灯を守っています。
 


⑦ 沖縄県(おきなわけん)

鳥了帥(ちょうりょうすい)

【ヤコウガイを手にした豪族】


 徳太子が、大国「隋」に小野妹子を遣わしたころ、
「流求(りゅうきゅう)」に、鳥了帥という豪族たちがいました。
鳥了帥は、波羅壇洞(はらたんどう)という城に住む
「流求」の王に仕える村の長たちです。
中国の『隋書』「流求伝」には、このころの「流求」の社会や風俗、
文化などが詳しく伝えられています。
 
 の皇帝煬帝(ようだい)は、「流求」を従えるため、
朱寛(しゅかん)という使者を数回にわたって遣わしました。
ところが、「流求」の王は、鳥了帥ら豪族たちと団結し、追い返したというのです。
 
 ころで、この地域では、ヤコウガイをさかんに採っていました。
中国に輸出されて螺鈿(らでん)細工の材料となったからです。
螺鈿とは、ヤコウガイの貝殻を薄板に裁断し、
表面の緑色の層をていねいに磨いて真珠層を出し、
そのキラキラしたかけらを木や漆の上にはめ込み、
美しい文様を造り出す細工物です。
 
 の原料のヤコウガイは、サザエ科の巻貝です。
水深十メートルの海に棲み、夜に活動する二十センチぐらいの貝です。
奄美大島の小湊フワガネク遺跡群やマットノ遺跡では、
このヤコウガイがたくさん加工されていました。
ヤコウガイは、サンゴ礁の縁の深みに集まります。
ですから、サンゴ礁近くの砂浜に加工場が造られました。
素潜りを得意とする人々が住み、たくさんのヤコウガイを採っていたことでしょう。
 
 て、ヤコウガイは、中国の商人たちのもたらす鉄製品と交換されました。
しかし、唐の国力が落ちた九世紀以降になると、
日本の貴族たちが、この神秘の貝をこぞって求めたのです。
需要の増加は、日本国内の螺旋細工工人の技術力を向上させました。
そして、ついに我が国の螺鈿細工は、唐や宋の国に輸出するまで成長したのです。
 
 「流求」の王に仕えた鳥了帥は、ヤコウガイをめぐって、中国商人とわたりあったことでしょう。





⑥ 鳥取県(とっとりけん)

伊福吉部徳足比売(いおきべのとこたりひめ)

【薄命の采女〈うねめ〉】


鳥時代の末、鳥取県から藤原京に采女として召された

伊福吉部徳足比売という人がいました。
采女とは、天皇や皇后の食事や宮中のさまざまな儀式の
準備などをつかさどる女性の官人のことです。
采女には、誰でもなれたわけではなく、
美貌と才能を備えた地方豪族の娘だけがなれました。
 
 くは、地方豪族が、服属の証拠に娘を人質として、
宮中に差し出したのが始まりといわれています。
それが、次第に地方豪族の出世や中央進出の足掛かりとなったのです。
 
 はいえ、十代後半の女性が、
右も左もわからない飛鳥の都で仕事と生活を両立し、
心労が重なったのでしょう。
徳足比売は、わずか二年足らずで亡くなってしまいます。
娘の死を憐れんだ因幡国法美(ほうみ)郡の郡司だった伊福部氏は、
ふるさとに娘の墓を造りました。
その墓には、とても貴重な銅でつくられた蔵骨器を納めたのです。
その蓋に彼女の業績が刻まれ、死亡の日付が書かれました。

 武天皇に采女として仕えたこと、
慶雲四年(七〇七)に従七位下(じゅうしちいげ)となったこと、
和銅元年(七〇八)七月一日に藤原京で亡くなり、
三年間の殯(もがり)の後、同三年(七一〇)十月火葬され、
十一月十三日に因幡国に葬られたことなどが記されていました。

 の蔵骨器は、江戸時代に鳥取市国府町宮下の無量光寺の境内から掘りだされ、
現在は、東京の国立博物館に展示されています。
小さな盆地をゆるやかな山並みがつつみこむ無量光寺周辺は、
因幡国府や法美郡家、岡益の石堂のような寺院など、
文化・行政施設の集中する地域です。
徳足比売は、飛鳥の都から帰り、ここに眠り続けていたことでしょう。





⑤ 宮城県(みやぎけん)

道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)

【陸奥の豪族から都の貴族となった男】


美押勝(藤原仲麻呂)の乱をきっかけとして、

貴族の仲間入りをした陸奥の豪族がいました。
陸奥国牡鹿(おしか)郡(石巻市・東松島市)出身の道嶋宿禰嶋足です。
嶋足は、牡鹿郡司の家の子でしたから、舎人として早くから都に上り、
軍事や警察にかかわる役所で仕えていました。
もともと嶋足は、からだも容姿も勇壮で怖いもの知らず、
そして走る馬から弓矢を放つ技に長けた人物でした。

 の名は、天平宝字元年(七五七)、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、
都でクーデターを起こしたとき鎮圧に向かい、
武功をあげたことで、すでに有名になっていました。
そして、同八年(七六四)に起きた恵美押勝の乱では、
孝謙上皇、道鏡方について仲麻呂の息子、藤原訓儒麻呂(くずまろ)を倒し、
天皇の持つ印鑑(御璽、ぎょじ)と駅鈴(えきれい)を
奪い返すという大活躍をしたのです。
 
 足は、従七位上から従四位下と十一階も位を進め、
天皇の親衛隊である授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)の少将と、
相模国の守を賜ります。その後も武官の道を歩み、
近衛府(このえふ)の中将と下総国の守、
播磨国の守など大国の守を兼務していきます。

 足の都での出世は、地元の道嶋一族を陸奥国府の役人や
牡鹿郡の大領、征夷軍の武将に抜擢させ、伊治(いじ)城や
覚鱉(かくべつ)城などの造営を担うなど、急成長させました。
道嶋氏が、征夷に積極的だったのは、
房総半島の千葉県東総地方から来た移民系豪族だったからでしょう。
このころ、宮城県北部では、従来からの豪族と、北方の蝦夷、
そして移住してきた豪族が、複雑に勢力を競っていたのです。

 総地方と牡鹿地方では、このころ共通した考古学資料をみることができます。
鍔(つば)に二つ穴のある鉄刀、関東地方の土器と共通した土器、
海岸の崖に無数に開いた横穴墓などです。
道嶋氏の出身を語る絶好の考古学的資料です。



④ 愛媛県(えひめけん)

越智常世(おちのつねよ)

【平安の相撲人(すまいびと)】


安時代、旧暦七月下旬、宮中で相撲の節会が行われました。
全国各地から力自慢の男たちが、国司によって集められ、
伊予国からも越智郡から、越智常世という猛者が都に召されました。


 
世は、永延元年(九八七)、「助手(すけて)」として史料に登場します。
助手とは、大関にあたります。
その一三年後には、横綱にあたる「最手(ほて)」として全盛期を迎えます。
その常世に怪力でならした助手の御春時正(みはるのときまさ)が挑戦しました。
常世は接戦の末、からくも時正をねじ伏せることができました。
これを見ていた貴族たちは、口々に「神妙」と叫んだそうです。
 

た、久光(ひさみつ)という相撲人は、長く伸ばした爪で
常世をひっかいて攻撃しましたが、常世が張り手で頭を突くと、
久光は気絶しました。
貴族たちは、久光に再挑戦させようとしましたが、
久光は「もうこりごりだ。牢屋に入れてください。牢屋なら命を失いません」と、
逃げ回ったといいます。


 
「天下の一物」といわれた常世は、五三歳まで最手を務めましたが、
寄る年波には勝てず、また落馬してけがをしたので、
今年の相撲節会を欠場したいと申し出ました。
このとき左大臣の藤原道長は、常世のことを「頭白く髪無し」とけなしています。
 

ころで、NHKの相撲中継では、力士の出身地を放送します。
今も昔も変わらず、国司に率いられた常世のような猛者が、
国や故郷を代表して大一番に挑んだことでしょう。


③ 埼玉県(さいたまけん)

物部連兄麿(もののべのむらじえまろ)

【聖徳太子に仕えた舎人】


玉古墳群のある行田市には、「関東の石舞台」といわれる古墳があります。

奈良県明日香村の石舞台古墳のように古墳の土が失われ、
巨大な石室がむき出しになっているからです。
八幡山古墳と呼ばれるこの古墳は、古くから物部連兄麿の墓とされてきました。

 部連兄麿は、聖徳太子の伝記を集めた
『聖徳太子伝曆(でんりゃく)』に登場する人物です。
兄麿は、聖徳太子の側近として仕え、太子の死後は山背大兄王に仕え、
舒明天皇五年(六三三)、武蔵国造となりました。
いつも仏教を篤く信仰し、社会道徳を守って修行を積む信者の一人で、
冠位十二階の第四階、小仁(従五位下相当)の位を賜りました。
 
 て、この兄麿の墓が、八幡山古墳というのはなぜでしょう。
 
 ず、八幡山古墳は、七世紀中葉の古墳で、
径六〇メートルを超える巨大円墳が武蔵国内にはほかにないこと。
第二に、聖徳太子の墓とされる磯長陵(しながりょう)古墳と
共通した漆塗りの棺が用いられていたこと。
そして、第三に版築と呼ぶ基礎地業を施した古墳であること、
第四に切石積の大型石室で武蔵国内に肩を並べる古墳がないこと。
以上から、七世紀中葉に武蔵国造だった兄麿の可能性が、とても高いのです。
 
 かでも漆塗りの棺を作る技術は、都の周辺に住む渡来系の人々、
とくに乾漆仏と呼ばれる漆塗りの仏像を作っていた集団(仏師)の
技術以外には考えられません。
高級な漆を調達することからして困難な時代。
漆や絹を何層にも塗り重ねて作られた棺は、
彼らが都周辺で作り武蔵国まで運んだのでしょうか。
漆や絹、棺の飾り金具などを携えて下向してきたのでしょうか。

 麿は、若いころ舎人として上京し、
家を支えていた父や兄弟と世代交代の時期が訪れ、
武蔵へ戻らなくてはならない事情が訪れたのでしょう。
蘇我入鹿が、山背大兄王を急襲した事件のとき、
兄麿が武蔵国にもどっていたのは、幸いだったかもしれません。



② 宮崎県(みやざきけん)

藤原保昌(ふじわらやすまさ)

【豪腕を振るう日向の守】


原道長が、摂関政治の絶頂にあったころ、

藤原保昌という男が、日向国の守として、都から下ってきました。
保昌は、国司の引き継ぎのとき、
前任の国司が、任期中に死んだのをいいことに、
国府の備品や建物の欠損状態を実際よりおおげさに見積もり、
修復代金の差額をちょろまかしました。

 から遠く離れた日向国は、福岡県にあった大宰府の管轄にありましたから、
引き継ぎ事務の検査も大宰府で行われました。
大宰府の最高責任者、藤原佐理(すけまさ)(書道で有名な三蹟の一人)も
この不正に一枚かんでいました。
保昌は、「受領は倒れたところの土をつかむ」で有名な藤原陳忠(のぶただ)の甥で、
権勢の頂点にあった藤原道長の家司(けいし)でした。
家司とは、貴族に氏素性を書いた「名簿(みょうぶ)」を提出し、
主人のために命を尽くして仕えることを誓った者たちのことです。
また、貴族たちは、彼らの立身出世を助け、受領として各地に派遣したのでした。

 昌に限らず、都から下る受領たちは、
腕力や武力に長けた用心棒をたくさん従えて下向しました。
旅行中の強盗団や赴任先の豪族たちと、武力で解決する場面がたくさんあったからです。

 昌については、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語集』などに、
袴垂(はかまたれ)という大盗賊を震え上がらせた話、
日向国で行った不正の隠蔽のため書記官を殺害した話、
弟の保輔(やすすけ)が強盗団の首領だった話など、数々の逸話が残されています。

 お、保昌の妻は、あの『和泉式部日記』を書いた女性です。
本名も生没年もわかりませんが、和泉守橘道貞(いずみのかみたちばなみちさだ)、
為尊(ためたか)親王、敦道(あつみち)親王などとも恋愛をするなど、
奔放な女性でした。



① 石川県(いしかわけん)

能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)

【北方の人々と戦った男】


我氏を倒した改新政府は、列島の南北にどのような人々が住むのか、

探検隊を派遣しました。

斉明天皇六年(六六〇)三月、北海道に阿倍比羅夫が、

二〇〇艘(隻)の船団を率いて肅慎(みしはせ)と呼ばれた人々を

訪ねる旅に出かけたのです。


の船団に能登臣馬身龍がいました。

馬身龍は、能登半島に基盤をもつ豪族でした。

能登には、奈良時代に下りますが、舟木秋麻呂(ふなきのあきまろ)、

舟木部積万呂(ふなきべのつみまろ)、舟木部申(ふなきべのさる)など

船にかかわる人々が住んでいました。

能登の人々が、操船や造船の技術に長けていたことがわかります。

また、能登は、塩作りが盛んで、魚介の塩漬けが作られ、

朝廷に貢納されていました。


お、この塩作りや造船が、能登から越後や佐渡へ伝わるなど、

能登と越後は、盛んに交流していました。

そこで比羅夫は、馬身龍たちの日本海交易のルートを用いて、

さらに北の人々との接触を試みたのです。

しかし、平和な貿易交渉は成立せず、戦いとなり馬身龍は、

肅慎たちが築いた弊賂辨嶋(へろべのしま、場所は不詳)の

柵の戦いで、討たれてしまいました。


尾湾に浮かぶ能登島には、馬身龍の墓とされる蝦夷穴古墳があります。

小高い丘を登りつめると、資料館の先に小形の方墳が築かれています。

朝日に輝く七尾湾を望む蝦夷穴古墳には、

二体の棺を置く高句麗系の横穴式石室が築かれました。

高句麗からの使者が、たびたび訪れた能登では、

応対に能登臣があたったことでしょう。

蝦夷穴古墳は、能登と高句麗との交流も考えられる古墳です。


 
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