本文へ移動

連載・読み物

都道府県別 古代豪族の話   著:田中広明(たなかひろあき)

㊷ 兵庫県 (ひょうごけん)

韓鍛首広富 (からかぬちのおびとひろとみ

【港を修理した男】


 
良時代の末、瀬戸内海から山を越えた美囊郡(三木市)の大領、韓鍛首広富が、
港の修復に莫大な献金をおこないました。
この港は、「水児船瀬」(かこのふなせ)と呼ばれ、
瀬戸内海に加古川がそそぐ河口付近にあったと考えられています。
船瀬は、船の停泊する船だまりのことです。
 
 
て、内陸部の広富が、なぜ水児船瀬の修復に資金提供をしたのでしょう。
広富としては、重要な国家事業に私財を投げ打つことで、
五位以上、つまり貴族の仲間入りがしたかったのでしょう。
結果的には、正六位下(しょうろくいげ)から外従五位下(げじゅごいげ)となり
成功しました。
「外」とは、地方の官人ということです。
 
 
富以前にも献物によって五位となった人物がいました。
揖保郡(たつの市)の佐伯直諸成(さえきのあたいもろなり)です。
諸成は、郡司としては一般的な大初位下から、一気に外従五位下となりました。
かれは、国の港湾建設事務所である「造船瀬所(ぞうふなせしょ)」に
多額の献金をしたことが、認められたのです。
 
 
のころの国家財政は、長岡京の都造りや東北地方北部の戦争によって、
もはや破綻しかかっていました。
そこで国家は、西日本の税金や年貢を船で京に滞りなく運べるように、
港湾の改修整備を急いだのです。
広富は、このチャンスを逃さず、今まで蓄えた稲を放出したのでしょう。
 
 
児船瀬は、民間の資金を用いて図書館や公共観光施設を建てたり、
運営したりするPFI方式(民間活力導入)の港だったのです。


㊶ 山梨県 (やまなしけん)

壬生直益成 (みぶのあたいますなり

【甲斐の勇者の子孫】


 慶六年(八八二)に壬生直益成が、巨麻(こま)郡から
山城国愛宕郡(京都府京都市)に引っ越しました。
『日本三代実録』にこの記事が残ったことで、
古くから壬生部の人々が八ヶ岳山麓の開発に挑み、名馬を育て、
甲斐の勇者として壬申の乱を戦い、甲斐国で最も古い寺を建立したことが導き出せます。

 
ころで、壬生部は、次の天皇となる皇太子を養うため、全国各地におかれた集団で、
特産物を納めたり、労働を奉仕したり、戦争となったら先頭に立って戦った人々です。
聖徳太子(厩戸皇子)のときからはじまり、太子の死後、
皇子の山背大兄王(やましろのおおえおう)に壬生経部は引き継がれました。
その壬生部の各地域のリーダーが、壬生直であり、その子孫が益成だったのです。

 
て、この巨麻郡には、甲斐国で最も古い瓦を焼いた天狗沢瓦窯があります。
未だにこの窯の瓦で屋根を葺いた寺は発見されていません。
しかし、この瓦は、近江京(滋賀県大津市)にかかわる南滋賀廃寺や崇福寺跡などで
使われた高句麗系の瓦と共通するといわれます。
また、天狗沢窯で土器も焼かれており、その中に特殊な硯(すずり)があります。

 
れは、大友皇子側を八ヶ岳山麓の壬生部たちが強力に支援していたことから、
特別に高麗人とかかわる寺院の建設が推進されたといわれています。

 
ころが、壬申の乱で大海人皇子側に加担したのは、「甲斐の勇者」達でした。
天狗沢窯とは別の瓦窯の瓦を用いた寺本廃寺(山梨市)は、
奈良時代を通じて増築され、寺は維持されます。
寺本廃寺は、時流に乗った彼らの成長の証だったのです。

㊵ 山形県 (やまがたけん)

城養蝦夷脂利古 (きかうのえみしししりこ

【子供たちを仏門に入れた蝦夷】


 統天皇称制三年(六八九)、置賜地方出身の蝦夷、
麻呂(まろ)と鉄折(かなおり)の二人が、ひげや髪を剃って、
仏門に入ることを申請します。
税金の免除のために僧や尼になる者がいたため、国司や郡司に申請し、
都で許可を受けなければ、僧侶の戸籍である、「僧尼帳」に登録されなかったのです。
そこで、二人は、蝦夷の食生活を断ち、野菜中心の食生活を送ったので、
出家して修行を行うことを許可されました。

 
の申請の二ヶ月前、天武天皇の死を悼(いた)む殯(もがり)に参加した
一九〇人余りの蝦夷、その一ヶ月後、飛鳥寺の槻木(つきのき)の下で饗宴を受けた
二一三人の蝦夷が都にいました。その中に二人はいたかもしれません。

 
呂と鉄折は、脂利古(ししりこ)の男、すなわち子供とあります。
脂利古は、城養蝦夷(きこうのえみし)とされ、
置賜地方に作られた城柵にかかわる蝦夷の一人でした。
しかも務大肆(むだいし)(従七位下〈じゅしちいげ〉)という位でしたから、
リーダー的な蝦夷だったはずです。
なお、このころ置賜郡は、太平洋岸の陸奥国に属していました。
置賜郡が、出羽国となるのは、和銅五年のことです。

 
じ年、越の蝦夷の道信(どうしん)という僧が、仏像とさまざまな仏具、
綿や布等を賜り、また陸奥の蝦夷の自得(じとく)という僧が、
金銅の薬師如来(やくしにょらい)像、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像と
さまざまな仏具等を賜りました。自得は、麻呂か鉄折の法名かもしれません。

 
信や自得は、越や陸奥に帰ると、堂や塔などを建て、仏像を安置し仏具を納めました。
寺は、道信や自得たちの家族や地域の人々が、建立したのでしょう。
富裕な蝦夷たちは財産を寺に寄進したことでしょう。

 
お、西置賜郡白鷹町の円福寺には、奈良時代初期の新羅仏、聖観音立像が、
今も安置されています。

㊴ 福島県 (ふくしまけん)

磐城臣雄公(いわきのおみおきみ)

【橋、溝、池、正倉を修理した豪族】


 奥国磐城郡(いわき市)の大領(たいりょう)、
磐城臣雄公は、承和七年(八四〇)三月、外従五位下(げじゅごいのげ)を賜ります。
大きな橋を二十四ヶ所、溝や池を二十六ヶ所、
税を納めた稲倉一九〇棟などを修理した功績を評価されました。
同じ日、岩手県盛岡市付近の蝦夷、物部斯波連宇賀奴(もののべしばのむらじうがぬ)や
陸奥国宮城郡(宮城県仙台市)の郡司、物部已波美(もののべのいわみ)も
外従五位下を受けました。
この叙位の推薦には、陸奥国司が大きくかかわっていました。

 
来、雄公の行った土木や建築の工事は、国司が担うべき仕事でした。
国司は、雑徭(ぞうよう)という勤労奉仕を一年間六〇日だけ課して、
公共事業を行うこととなっていました。
しかし、陸奥国は、東北三十八年戦争といわれる征夷事業の最中でしたから、
なかなか陸奥国内の雑務まで手が回りませんでした。

 
公も武功をあげると賜る勲八等を持っていました。征夷事業に参加したのでしょう。
また、雄公としても、貯水池の底ざらいや用水路の草刈りをせず、
田に水を運べないと、農業経営に支障が出るので、積極的に工事を行いました。
古代の法律では、用水や堰(せき)の修理や管理は、
それを利用して経済的に直接潤う「用水の家」が行うことになっていました。
「用水の家」とは、雄公のような豪族の家です。

 
ころで、磐城郡の役所の建物や正倉は、いわき市根岸遺跡で発掘調査され、
その全貌が明らかになっています。
その調査結果によると、雄公が修理した一九〇棟が、
一時期に建っていたとは、とても考えられません。
また、磐城郡には、夏井川や藤原川などありますが、
大きな橋を掛けたのは、常陸国(茨城県)から続く東海道でしょうから、
二十四ヶ所も掛かっていたと思えません。
おそらく、磐城郡以外も含め、雄公の長年にわたる修造事業が、高く評価されたのでしょう。


㊳ 福岡県 (ふくおかけん)

筑紫君磐井(つくしのきみいわい)

【石人・石馬に守られた大豪族】


 体天皇二十一年(五二七)、九州北部の大豪族、
筑紫君磐井が古代王権に反旗を翻しました。
 
 
羅に奪われた地を取り戻すため、六万の兵を率いた近江毛野臣(おおみのけののおみ)が、
畿内から九州に進みました。しかし、新羅と友好関係にあった磐井は、
毛野の半島への進軍を一年半にわたって阻止したのです。
そこで継体天皇は、大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(もののべのあらかい)を大将軍として遣わし、
ついに筑紫の御井(みい<福岡県三井郡>)で磐井を撃ち破り、朝鮮半島へ進軍したのです。
 
 
『日本書紀』は、この戦いで磐井は斬られ、子の葛子(くずこ)は、
糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上したとあります。
屯倉は、古代王権に服従した豪族が、献上した土地、交通拠点などです。
なお、『筑後国風土記』(逸文)によると、
「豊前国上膳県」(ぶぜんこくかみつみけあがた<大分県上毛郡>)の山中に磐井はのがれ、
消息が途絶えたとあります。

 
ころで、磐井の勢力は、どこまで及んでいたのでしょうか。
それを解くカギは、ふたつあります。
ひとつは、九州北部に広がる石人・石馬の分布です。
石人・石馬とは、石でつくられた馬や人、建物などで、埴輪のように古墳に並べられました。
『筑後国風土記』(逸文)に磐井の墓に石人・石猪・石馬・石殿・石蔵などがあるとあります。
福岡県八女市の岩戸山古墳にはこれと対応するように、石人・石馬があるからです。
この石人・石馬を立てた古墳が、
磐井の勢力と深くかかわった九州北部に広く分布しているのです。

 
うひとつは、『日本書紀』が伝える「筑紫、火(ひ)、豊(とよ)」の地です。
この地域には、磐井の乱後、糟屋屯倉をはじめ、穂波(ほなみ)、鎌(かま)、腠碕(みさき)、
桑原(くわはら)、肝等(かと)、大抜(おおぬく)、我鹿(あか)、春日部(かすがべ)などの
屯倉が建てられました。
現在の福岡県、大分県、佐賀県、長崎県の四県にまたがります。
 
 
お、福岡県古賀市の鹿部田渕(ししぶたぶち)遺跡では、
玄界灘を望む高台に複数の大型建物が発見され、糟屋屯倉の建物群とされています。
新羅と磐井を結ぶ港湾が、おぼろげながらやっと見えてきたのです。


㊲ 徳島県 (とくしまけん)

粟凡直若子(あわのおおしのあたいわかこ)

【都に上った郡司の娘】


 波国の板野郡(いたのぐん)から奈良時代、
都に上った女性に粟凡直若子、別名板野命婦(いたののみょうぶ)がいました。
若子は、阿波国の名族、粟凡直氏の娘として生まれ、幼いころから勉学に励み、
高い教養を身につけた女性に成長しました。
そして、宮中で仕えるため采女(うねめ)となりましたが、
のちに藤原北家の房前(ふささき)に嫁ぎ、
のちに参議となる楓麻呂(かえでまろ)を生みました。
 
 
くに若子は、藤原仲麻呂(なかまろ)の政権のもと、
その中枢機構である紫微中台(しびちゅうだい)に四年間つとめ、
造東大寺司(ぞうとうだいじし)との連絡係を務めていました。

 
ころで造東大寺司という役所は、
東大寺という大寺院を建設するために臨時につくられた巨大組織でした。
他の役所から、役人たちが寄せ集められ、その運営は、
五〇〇〇〇町にもおよぶ各地の庄園が支えていました。
いわば特別会計で運営される国家の役所だったのです。
東大寺の建設と墾田永年私財法の詔(みことのり)が、
歩みをひとつに出されたのもそのためです。
 
 
凡直若子のふるさと、阿波国からも東大寺へ庄園が寄進されました。
名方郡(徳島市)の新島庄です。
新島庄は、吉野川の河口付近の肥沃な氾濫原に立荘されました。
ここは、粟凡直氏の拠点や阿波国府、板野郡家などにも近く、
とくに上豆処地区(徳島市国府町花園)には「川渡船津」とよばれる船着場もありました。
なお、正倉院には、この新島庄の絵図が残されています。
わが国最古の「庄園絵図」のひとつです。

 
の新島庄を足がかりとして、粟凡直氏は、ますます阿波国で勢力を拡大していきました。


㊱ 岐阜県 (ぎふけん)

笠朝臣麻呂(かさのあそんまろ)

【木曽路を開いた国司】


 雲三年(七〇六)年七月、美濃国に新しい長官が赴任しました。笠朝臣麻呂です。
麻呂は、元来、吉備の豪族でしたが、中央の下級官人となり、
美濃国へ国司として派遣されたのです。
一般の国司が、任期六年で都へ戻るのに、麻呂は、
四期十四年半にわたって美濃の守を務めたのです。守の最高記録です。

 
の政治的手腕は、公共土木工事に際立っていました。
それは、美濃不破関の整備したこと、木曽路を開いたこと、
席田(むしろだ)・池田郡を設置して木曽川流域の広域開発をしたこと、
「美濃国」ブランドの焼き物の生産にかかわったこと、
当耆(たき)郡の醴泉(れいせん)をめぐり元正天皇の行幸(ぎょうこう)を演出したこと、
美濃・尾張・三河・信濃の広域行政官(按察使<あぜち>)となったことなどです。

 
かでも岐蘇山道(きそのやまみち)の開削は、国家宿願の事業でした。
古代国家は、都から地方へ七道を伸ばし、太平洋岸と日本海岸を結ぶ連絡路をつくり、
東北地方や渤海、新羅などの情報を得、さらに通信・軍事行動などを
迅速に行えるネットワークを完成させたかったのです。
そのため、越前国(福井県)から難所の多い北陸道や日本海海路を経由せずに、
佐渡や東北地方に向かうルートが渇望されたのです。

 
なみに、木曽地方は、現在、長野県ですが、
古代には、岐阜県の大半を占める美濃国の恵那郡の一部でした。
木曽路が開通しても、木曽の山野開発や民間交流はなかなか進まず、
山の斜面に貼り付くようにポツポツと村が作られ始めたのは、
ようやく平安時代(十世紀)に入ってからでした。
そして村々では、岐阜県東部で作られた陶器が使われました。
美濃国から物や人が入る木曽は、美濃国だったのです。

 
破関の整備と岐蘇山道の開通は、
美濃国の入口(前)と出口(後)にかかわる重要な出来事でした。


㉟ 青森県 (あおもりけん)

諸君鞍男(もろきみのくらお)

【靺鞨<まっかつ>へ派遣された津軽の豪族】


 城県の多賀城跡には、「壺碑」とよぶ古代の碑(いしぶみ)があります。
そこに多賀城から三千里に靺鞨国との境があるとあります。
靺鞨とは、朝鮮半島北部から沿海州にくらした人々を指します。
文武天皇二年(六九八)、新羅によって滅ぼされた高句麗の人々や、
もともとこの地域に住んでいた人々が、国を興します。
そして十四年後、渤海(ぼっかい)国となります。

 
の建国まもない靺鞨の国に、養老四年(七二〇)、
津軽の諸君鞍男という豪族が遣わされました。
鞍男は、渡嶋津軽(わたしまつかる)の津司(つのつかさ)という役人でした。
「津」とは、船の停泊する港のことです。
物資や人が集まることから、市や宿、寺や社などがありました。
一般に「津」を管理したのは、「津長」という民間の有力者でした。

 
かし、「津司」の鞍男は、外国使節の応対や商品の輸入、輸出など、
今の税関のような仕事をしていたのでしょう。
津軽は、北海道や沿海州など北の世界に開かれた玄関でしたから、
ヒグマ、オットセイ、アザラシ、アシカ、ドッカン(ラッコ)などの毛皮が、
豊富に交易されました。
盛んな交易を裏付けるように、津軽の五所川原で作られた須恵器が、
たくさん北海道から出土しています。

 
お、「津司」という墨書土器は、石川県金沢市の畝田・寺中(うねだ・じちゅう)遺跡
から出土しています。
金沢港近くのこの遺跡は、加賀(かが)国の国府津(こくふのつ)ともいわれ、
たびたび渤海の使節が訪れたといわれています。

 
ょっとしたら鞍男は、靺鞨人や渡嶋の蝦夷のことばを話すバイリンガルだったのかもしれません。


㉞ 和歌山県 (わかやまけん)

紀直吉足(きのあたいよしたり)

【『日本霊異記』の家長<いえぎみ>】


 代の説話を通じ、仏の教えを広めようと大和薬師寺の僧、景戒(けいかい)が著した
『日本霊異記』には、実在の地名、実在の人物、実在の寺が登場します。
そのなかに、紀伊国日高郡別里(わけのり)(日高郡川辺町)に
住む紀直吉足の登場する説話があります。

 
足は、「椅(はし)の家長(いえぎみ)の公」とあり、「椅」という
家号の家の主人で土地の有力者でした。
しかし彼は、生来意地が悪く、仏教を信じませんでした。

 
暦四年(七八五)五月、国司が、稲を農民に貸し付けるため、日高郡を訪れたときです。
吉足も国司から稲を借りたとき、「伊勢」という乞食僧が、
お経を唱えて吉足からお布施をいただこうとしました。

 
れども、吉足は、稲を与えず、袈裟をはぎ取り、暴力を振るったのです。
そして乞食僧は、別の寺の僧坊に逃げ込みました。
吉足は、寺の中まで追いかけ、僧をとらえると、
自分の家の門前まで引き戻して、さらに攻め立てたのです。
そのような悪行を積んだことから吉足は、幾日もしないうちに、
地面に倒れて死んでしまったといいます。

 
の話は、無論史実とは言い難いのですが、そこに登場する別寺(わけのてら)が、
日高郡川辺町鐘巻の道成寺にあたるといわれています。
道成寺の境内には、現在の建物よりも古い寺跡があったことが、発掘調査で明らかになっています。
なお、この道成寺とは、安珍、清姫の「娘道成寺」で有名な道成寺です。

 
のほかにも『日本霊異記』には、実在した可能性のある紀伊国の寺が、いくつか掲載されています。
「伊都郡桑原の狭屋寺(さやでら)」という尼寺は、
伊都郡かつらぎ町の佐野(さや)廃寺といわれ、文忌寸(あやのいみき)の氏寺とされます。
また、那珂郡の「弥気(やけ)の山室堂」は、貴志川町北山廃寺といわれ、
名草郡の「薬王寺(勢多寺)」は、和歌山市薬勝寺廃寺が相当するといわれています。
今後も『日本霊異記』に限らず、寺名の明らかになる寺跡が発見されるかもしれません。


㉝ 鹿児島県 (かごしまけん)

曽君細麻呂(そのきみほそまろ)

【南九州をまとめた隼人の首長】


 州の南部には、古代王権に従わない熊襲(くまそ)、隼人(はやと)と呼ばれた
勇猛な人々が住んでいました。
古代王権は、この熊襲や隼人たちを屈服させ、人口調査をし、
南九州からも税を取り立てようとしたのです。

 
こで、まず日向国児湯(こゆ)郡(宮崎県西都市)に三野城(みのじょう)、
大隅国桑原郡(鹿児島県国分市)に稲積城(いなづみじょう)という城柵を築きました。
前者は後の日向国府、後者は後の大隅国府にあたるといわれています。

 
に行ったのが、薩摩国高城(たかき)郡に肥後国(熊本県)から移民を送り、
肥後国にちなむ合志(かわし)、飽多(あきた)、宇土(うと)、詫万(たくま)といった
郷をつくりました。
高城郡は、国府のあった郡ですから、日向の三野城、大隅の稲積城とともに、
薩摩に高城(たかのき:多賀城)と呼ぶ城柵があったかもしれません。

 
宝二年(七〇二)、郡司を選ぶ方法や、税の基礎となる人口調査に腹を立てた隼人たちが、
種子ヶ島や屋久島の人々を巻き込んで反乱をおこしました。
しかし、和銅三年(七一一)、日向の隼人の曽君細麻呂が、南九州の隼人を説得し、
郡を建てることや人口調査に同意することに成功しました。
細麻呂は、この功績により外従五位下(げじゅごいげ)の位を授かりました。

 
して三年後、それまで日向国だった肝坏(きもつき)、曾於(そお)、大隅(おおすみ)、
姶欏(あいら)の四郡を割いて大隅国ができました。
大隅国ができると、豊前国から二〇〇戸の移民がやってきました。
桑原郡の大分(おおきた)郷や豊国(とよくに)郷は、移民の人たちの建てた郷といわれています。

 
かし、移民が増えると、それまで住んでいた人々との間で衝突が起こりました。
養老四年(七二〇)におこった隼人の反乱は、古代最大の反乱といわれています。
その後、平安時代になって、戦死した隼人を弔う「隼人塚」という塚が、
国分市重久や姶良郡隼人町内山田などに建てられました。
今でも塚の上には、荒々しい武人の石像が立ち並んでいます。


㉜ 広島県 (ひろしまけん)

百済の弘済(ぐさい)

【三谷<みたに>寺を建てた僧】


 安時代はじめの『日本霊異記』に備後国三谷郡(三次市)の大領の先祖が、
三谷寺を建てたという説話が載っています。

 明天皇六年(六六〇)、新羅と唐の連合軍が百済に侵攻したため、
わが国は国内の豪族たちで編成した救援軍を朝鮮半島へ派遣します。
三谷郡大領の先祖もその一人でした。
彼は、神仏に「もし生きて帰れたならば壮大な伽藍の寺を建てよう」と誓願しました。

 わゆる白村江の戦いでわが国と百済は大敗しましたが、
彼は百済の弘済という僧とともに、命からがら帰国したのです。
そこで、彼はふるさとに寺を建て、弘済を招きました。
この寺は、「三谷寺」と呼ばれ、現在、三次市にある寺町廃寺が、
この三谷寺とされています。

 
ころで、この寺町廃寺からは、「水切り瓦」という軒瓦が出土しています。
丸瓦の先端が突出する特異な形の瓦です。
このころ寺は、一郡に一、二ある程度でしたが、水切り瓦は、
広島県北東部の寺院跡で積極的に用いられていました。

 
のことは、三谷郡司の先祖と近隣の郡の豪族たちが、寺の建設をめぐって、
互いに連携し合っていたことを示しています。
彼らは、郡内の人々を率いて朝鮮半島にわたり、帰国後は、
競うようにその財力を寺院の建設に注いだのでした。


㉛ 東京都 (とうきょうと)

大伴直宮足(おおとものあたいみやたり)

【蝦夷との戦いに私殻を送った郡司】


 亀元年(七二四)ごろ、陸奥国(宮城県)に多賀城(たがじょう)が建てられました。
鎮所(ちんしょ)と国府、つまり征夷と陸奥国の行政を担うことが、その目的でした。
鎮所には、たくさんの兵が駐留するので、大量の食糧が必要でした。
そこで元正天皇は、進んで食料を多賀城へ運んでくれる人を募ります。

 
伴直宮足は、その呼びかけに反応した一人でした。
しかし、宮足が、鎮兵(ちんぺい)のためという義心や善意だけで、
多量の米穀を運んだわけではありません。
元正天皇の詔(みことのり)の「遠い人は二千斛(こく)、次は三千斛、近い人は四千斛を
運んだら外従五位下(げじゅごいげ)を授けます」がきっかけでした。

 
ころで、奈良県の平城京から、「豊島郡大領(たいりょう)大伴直宮足」と書かれた木簡が発見され、
宮足が、武蔵国豊島郡(としま、東京都北区)の大領だったことがわかりました。
詔にある遠い人、近い人が、どこまでか不明ですが、
常陸国那賀郡(茨城県水戸市)の大領宇治部直荒山(うじべのあたいあらやま)は、
三千斛を陸奥鎮所に送り、外従五位下を賜ったことから、宮足も三千斛を運んだと考えられます。

 
島郡から陸奥鎮所までは、東京湾を横断し、いったん下総国を通過し、
常陸国から陸奥へ船で向かったのでしょうか。
陸路を馬や人が輸送したのでしょうか。いずれにしても大変な労力だったはずです。
その苦労を押してまで宮足が、兵糧を運んだのは、「外従五位下」という位が魅力的だったからです。

 
ぜならば、五位は、蔭位(おんい)が適用され、子息が従八位を受けられたからです。
つまり、郡司の息子が、必ず郡司になれる道が開けるからです。
家を守るため、宮足は、大切な稲穀をなげうったのでした。

 
区の御殿前(ごてんまえ)遺跡は、宮足の勤めた豊島郡の役所(郡家、ぐんけ)が置かれていました。
北区の資料館には、その復元倉庫や宮足の使ったかもしれない土器が展示されています。


㉚ 滋賀県 (しがけん)

小野妹子(おののいもこ)

【「日出ずる国」の使者】


 代の滋賀県には、高名な外交官が多数いました。
遣隋使の小野妹子、遣唐使の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)、
遣高句麗使の犬上君白麻呂(いぬがみのきみしろまろ)などです。

 
野妹子は、推古天皇十五年(六〇七)、日本の国書を携えて
隋国の煬帝(ようだい)のもとに向かいます。国書には、
「日出(ひいずる)ところの天子、書を日没(ひぼっ)するところの天子にいたす。つつがなきや」
(日本の天皇が、中国の皇帝に手紙を出します。ごきげんいかがですか)
肝を冷やしたのは、通訳として同行した鞍作福利(くらつくりのふくり)だったに違いありません。
 
 
れまで、日本の中国外交は、まずご機嫌を伺い、
朝鮮半島から日本列島を統括する「将軍」を授かってくるという立場でした。
しかし、今回の遣隋使は、対等外交を目指したのです。
隋が、朝鮮半島北部へ二百万の軍隊を遠征させる計画中だったことが幸いしました。
いや、遠征計画が予測されたからこそ、遣隋使は送られたのでしょう。
翌年、妹子は、隋の使者裴世清(はいせいせい)一行と一緒に帰国します。
 
 
鮮半島西岸から対馬、壱岐から筑紫に上陸したのち、
大阪湾を望む高台に新しい迎賓館を作り、そこで休養してもらいました。
そしていよいよ飾り馬を先頭に鼓笛隊のパレードとともに大和(やまと)に入り、
推古天皇のいる小墾田宮(おわりだのみや)へと進んだのです。
 
 
ころで、妹子の生まれ育ったのは、近江国滋賀郡(志賀町)小野といわれます。
琵琶湖が細くくびれた西側の地域です。
周囲には、「志賀漢人(しがのあやひと)」と呼ばれる渡来系の人々が、たくさん住んでいました。
小野氏は、それほど大きな豪族ではありませんでした。
妹子が、厩戸皇子(聖徳太子)や推古天皇、あるいは蘇我馬子などと、
個人的な関係をつちかっていたと考えられます。
しかし、妹子が遣隋使に抜擢されたのは、やはり人一倍、
頭脳明晰で度胸のすわった人物だったためでしょう。

 
お、隋の一行は、妹子を中国人風に「蘇因高(そいんこう)」と呼んだといいます。
「小(しょう=そ)妹(いも=いん)子(こ=こう)」ということです。


㉙ 愛知県 (あいちけん)

三家人部乙麻呂(みやけのひとべおとまろ)

【宮廷の陶器を地方に広めた人】


 文時代以来、人々は、素焼きの土器を用いていましたが、飛鳥時代の終わりころ、
中国から緑や黄、赤などの釉薬(うわぐすり)を施す技術が伝わり、
都の宮廷や貴族、寺社の世界で用いられ始めました。
この技術は、長らく都の宮廷工房で堅く守られていましたが、平安時代の初め、
さまざまな宮廷工房の技術が、地方に開放されると、
尾張国でも釉薬を施した施釉陶器(せゆうとうき)が作られるようになったのです。

 
安京の宮廷工房で釉薬の調合や、土器の作り方などを学んだ
尾張国山田郡(名古屋市北東部)の三家人部乙麻呂ら三人が、
弘仁六年(八一五)、尾張国へ戻ってきました。
もともと山田郡では、古墳時代以来、登り窯を使って焼き物(須恵器)を
盛んに作っていましたから、乙麻呂らは、代々陶工でした。
それが、新しい釉薬の技術を持って帰ってきたのです。

 
薬の技術とは、化学反応の技術です。鉛に熱を加えて鉛丹(えんたん)とし、
これに石英や緑青を加えて萌黄(もえぎ)色に発色する釉薬(緑釉〈りょくゆう〉)を作り、
素地の器に塗って緑釉陶器を焼きあげるのです。
また、植物を焼いた灰を釉薬(灰釉〈かいゆう〉)とする灰釉陶器も焼かれました。
緑釉陶器は、中国の青磁、灰釉陶器は白磁を目指したといわれています。

 
麻呂らは、緑釉陶器と灰釉陶器を尾張国で作り、税として優良品を都へ送り、
天皇や貴族の華麗な生活を支えていました。
また、両者は、都の生活にあこがれる各地の寺院や豪族、国府の役人などが、
積極的に購入したので、東国各地に広まりました。
生産地も隣国の美濃国や三河国、あるいは遠江国や飛驒国などにも拡散しました。
両者を求める消費者が、急速に増加したからです。

㉘ 大阪府 (おおさかふ)

物部守屋(もののべのもりや)

【古代王権を支えた軍事豪族】


 済から伝わった仏教をめぐり、伝統的な軍事豪族の物部氏と神を祭る中臣氏が、
崇仏派で新興豪族の蘇我氏と激しく対立し、
用明天皇二年(五八七)年、ついに全面戦争となります。
蘇我馬子は、諸皇子や群臣を率いて、
物部守屋のこもる河内の渋川(大阪府東大阪市)の家に向かいます。
その中には、若き聖徳太子(厩戸皇子)もいました。

 
川の家は、稲の束を積んで稲城(いなぎ)とし、
そこに家族と「奴軍(やつこいくさ〈家に仕える人々〉)」をたてこもらせました。
渋川の家には、高い榎の木があり、守屋もこの木に上り、矢を射かけて善戦をしましたが、
迹見首赤檮(とみのおびといちい)に射殺され物部氏は惨敗したのです。

 
ころで、守屋の経済的基盤となった領地は、どこにあったのでしょうか。
それを解くカギは、四天王寺(大阪府大阪市)にありました。
四天王寺が、没収した守屋の奴(やっこ)と「宅」(領地)の半分をもって、
寺の奴(耕作者)、寺の田荘(たどころ)(庄園)として建てられたからです。
この四天王寺の縁起を記した『四天王寺御手印縁起』には、守屋の所領が、
河内国の弓削(ゆげ)・鞍作(くらつくり)・祖父間(そふま)・衣摺(きぬずり)・
虵草(へびくさ)・足代(あじろ)・御立(みたち)・葦原(あしはら)・
摂津国の於勢(おせ)・鵄田(とびた)・熊凝(くまごり)・伏見(ふしみ)に
あったとあります。
また、守屋の二七三人の家族や奴、十八万六八九〇代(しろ)の田園、
三カ所の家が没収され、永く寺の財産とされました。

 
の四天王寺の地には、守屋の「難波の宅(やけ)」がありました。
難波の家は、守屋の信頼のおける従者、捕鳥部万(ととりべのよろず)が守っていましたが、
守屋の死を聞き万は、茅渟県(ちぬのあがた)の
有真香邑(ありまかむら〈貝塚市〉)に向かいます。
そこには万の妻の宅があったからです。

 
川の家は、「阿都(あと)の家」(八尾市跡部)とも呼ばれ、
『日本書紀』に守屋の別業(なりどころ)(別宅)と記されました。
本貫は、石上神宮のある大和盆地東部と考えられます。
おそらく、巨勢氏(こせ)、膳氏(かしわで)、葛城氏(かつらぎ)、大伴氏(おおとも)、
阿部氏(あべ)、平群氏(へぐり)、春日氏(かすが)などの大和の諸豪族が、
一斉に蘇我氏に加担したため、守屋は河内の渋川にこもったのでしょう。

 
のように、没収された領地や人々が、寺の土地や耕作者となったことで、
物部氏の所領が、かつて大阪府の各地にあったことがわかるのです。

㉗ 京都府 (きょうとふ)

秦河勝(はたのかわかつ)


【太秦の広隆寺を建てた男】


 都の太秦には、有名な弥勒菩薩(みろくぼさつ)の
半跏思惟像(はんかしゆいぞう)を納めた広隆寺があります。
その像は、右足を左足の上に組み、右手の指先をほおに軽く当て、
人々をどうしたら救えるのかを瞑想しています。
新羅の金銅仏をまね、アカマツを彫刻して漆を塗り、全面に金箔が施されていました。
おそらく薄暗い堂内で、金色の光を放っていたことでしょう。

 
て、この像は、推古天皇十一年(六〇三)十一月、百済から聖徳太子に献上され、
それを秦河勝がもらいうけました。
秦河勝は、蜂岡寺を建立し、この像を安置しました。
また、同三一年(六二三)七月に新羅、任那の使者がもたらした仏像も、
「葛野の秦寺」に安置されたといいます。

 
の葛野の秦寺と蜂岡寺は、現在の広隆寺といわれています。
「大秦公寺」とも呼ばれ、寺の歴史を記した『縁起』によると、
弘仁九年(八一八)四月に火災が発生し、堂塔は一つも残らず、
焼けてしまったといいます。
なお、京都市北区の北野廃寺から飛鳥時代の軒瓦、平瓦などが発見され、
「野寺」(葛野寺か)とヘラで刻まれた瓦も出土し、蜂岡寺ではないかともいわれています。

 
ころで、河勝には、あやしげな新興宗教「常世の神」にかかわる逸話が残っています。
皇極天皇三年(六四四)七月、静岡県の富士川あたりの人々が、
山椒や橘のいも虫を「常世の神」といって祭りだしました。
これに入信すると、家族や財産をなげうってこの神に仕えるというのです。
彼らが河勝の住む付近まで押し寄せてきたので河勝が、撃退しました。

 
のいも虫は、緑色に黒斑のある十センチあまりのアゲハ蝶の幼虫といわれます。
聖徳太子の軍事顧問、側近として活躍した河勝は、太子の死後、
山背大兄王の事件や蘇我氏の専横が渦巻く政界を離れ、葛野で力を蓄えていたのです。
その一年後、ついに大化の改新がおこりました。


㉖ 福井県(ふくいけん)

生江臣東人(いくえのおみあずまひと)


【長大な用水路を築いた男】


 良時代の半ばごろ、越前国足羽郡(福井市付近)に生江臣東人という豪族がいました。
かれは、私費で足羽川から延々と九キロメートルにおよぶ用水路を掘りました。
ブルドーザーやパワーシャベルの無い時代、鍬と鋤だけで一人一日一・八メートル、
延べ五〇〇〇人を雇い掘り上げたのです。
 
 れは、足羽川と日野川の合流付近に広がる荒れ地一〇〇ヘクタールを開墾し、ここに水田を作るためでした。
墾田永年私財法によって開墾した土地、用水の水は、東人のものとなります。
東人は、この土地を人に貸し、耕作してもらい、収穫の一部を年貢としてとりました。
ところが、この土地を東人は、惜しげもなく東大寺に寄進してしまいます。
寄進しても現地の管理人であり続けられたからです。
 
 るとき、東人が東大寺とトラブルとなり、出頭を命じられました。
一度は、「神社の春の祭りで酔いつぶれて行けません」、二度目は、「病気で行けません」といいました。
そしてついに、「私は老いぼれてお役にたちません」と逃げてしまいます。
 
 社の春祭が大切な東人は、農民とともに生きたブルドーザーのようなバイタリティに満ちた人物でした。
 
 お、福井市には、生江氏の建てた篠尾廃寺が、今も大きな礎石を残しています。
 

㉕ 茨城県(いばらきけん)

平将門(たいらのまさかど)

【貴族社会に弓を引く土着の国司の孫】


 の貴族を震撼させた承平・天慶の乱は、平将門と伯父の平国香(くにか)や
源護(まもる)らとの確執から始まりました。
直接の原因は不詳ですが、その後将門が、父の兄弟や従兄たちと争いを
繰り返したことに見られるように、土着した国司の子や孫を頂点とした地域社会が、
バランスを崩し武力で解決しようとしていました。

 将門の祖父高望王(たかもちおう)には、国香(くにか)、良兼(よしかね)、
良正(よしまさ)、良文(よしふみ)、そして将門の父良持(よしもち)がおりました。
高望王は、桓武天皇の孫でしたが、上総介(かずさのすけ)として土着すると、
各地の豪族と婚姻関係を結びます。
国香が常陸国真壁郡(茨城県桜川市)、良持が下総国猿島郡(同県坂東市)、
良兼は上総国武射郡(千葉県東金市)、良正は常陸国筑波郡(茨城県つくば市)、
良文が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市)の豪族と婚姻関係を結んでいたのです。

 
かし、鎮守府将軍だった将門の父良持が死ぬと、
下総国と常陸国の境界付近で覇権争いが激化しました。
そして承平五年(九三五)、将門は伯父の国香、常陸国大掾(だいじょう)の源護の息子三人を殺害し、
野本、石田、大串などの「宅」(やけ)といった地域経営の拠点、
敵に味方した人々の家々まですべて焼き払い、
さらに筑波、真壁、新治郡へ進軍し、家や営所を五〇〇あまり焼きつくしたといいます。

 
川市の辰海道遺跡やつくば市の中原遺跡では、
大型建物跡をともなった十世紀前半の居宅の跡が発見され、
『将門記』の営所や宅のたぐいと考えられます。
二つの遺跡では、火事で変色した施釉(せゆう)陶器も発見され、
「珍財」の略奪や放火があったこともわかりました。

 
門は、戦いを重ねるごとに名を上げ、ついに常陸国府を攻めて国家の反逆者となります。
そして、関東全域を手中に収めましたが、従兄の貞盛と下野国(栃木県)の豪族、
藤原秀郷に敗れ、乱はあっけなく終ったのでした。

㉔ 新潟県(にいがたけん)

高志公船長(こしのきみふななが)

【頸城平野を切り開いた男】


 高志公船長(こしのきみふななが)
 
つて奈良県の西大寺には、頸城郡(上越市)の大領、
高志公船長の「田図」という文書がありました。
「西大寺資財流記帳(さいだいじしざいるきちょう)」という財産目録にだけ登場する資料です。
田図は、船長の土地が、西大寺の土地となっていたことを示しています。
この土地は、船長が、頸城郡で墾田を行い西大寺に寄進した荘園か、
西大寺と船長が、協力して立てた荘園と考えられます。

 
西大寺の荘園が頸城郡に立てられるより前、天平勝宝五年(七五三)に
東大寺の石井庄(いわいのしょう)が、三和町付近に立てられました。
東大寺は聖武天皇、西大寺は娘の称徳天皇が、国家の威信をかけて建立した寺院でした。

 
かし、もともと両大寺院の建立や運営の資金など国にはありませんでした。
そこで、天平十五年(七四三)、墾田永年私財法を出し、新しく土地を開墾して荘園とし、
農民に貸し付けて運用益を財源に充てようとしたのです。
けれども実際に土地の開墾を行うには、用水の水利権や開墾の労働力集めなどの問題がありました。
そこで昔から地域の農民たちをまとめていた豪族たちに協力を仰ぎ、解決を図ったのでした。

 
の一人が、船長だったのです。
船長の拠点は、初期寺院の栗原廃寺がある新井市栗原付近とされています。
この付近に頸城郡の郡家もあったことでしょう。
そして、船長やその一族は、越後国府の所在郡の豪族という地の利を生かし、
まず東大寺の初期荘園経営にかかわり、称徳天皇と道鏡の政権のもとでは、
西大寺に荘園を寄進し、再び道鏡政権が瓦解すると、延暦八年(七八九)、
東大寺が頸城郡に真沼荘(まぬまのしょう)を立てる事業に「田図」を提出するなど協力したのでした。

 
お、平安時代にも高志公今子(こしのきみいまこ)が、優秀な女性として表彰されたり、
古志得延(こしのとくえん)が、石井荘をめぐり騒動を起こしたりと、
船長の末裔は、貴重な逸話を残しています。



㉓ 香川県(かがわけん)

佐伯直真魚(さえきのあたいまお)

【日本最大のため池を築いた男】


 伯直真魚とは、真言宗を開いた弘法大師空海のことです。
空海は、宝亀四年(七七三)、多度郡の豪族、
佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)のもとに生まれました。
十五歳で都に上り、大学に入って勉強をつみ、
三十一歳で遣唐使の留学生に選ばれて唐にわたると、
わずか二年間で密教をはじめ、さまざまな分野の学問を修め、
仏典をはじめ数多くの文献を持ち帰りました。
帰国後、空海は真言宗を開くと、嵯峨天皇から高野山を与えられ、
布教と執筆活動に邁進しました。

 
んな折、讃岐国で満濃池が決壊し、ふるさとの多度郡や那珂郡などが、
甚大な被害を受けました。
満濃池の修理に朝廷から路真人浜継(みちのまひとはまつぐ)という技術官僚が
遣わされましたが、なかなか工事がはかどりません。
そこで国司の清原夏野(きよはらのなつの)は、
讃岐国の人々とともに空海を呼び寄せたのです。

 
空海が、築池別当(ちくいけのべっとう)という役職で讃岐国へ下ると、
国中から人々が父母を慕うように集まりました。
空海は、満濃池をこれまでに無いアーチ型ダムとし、岩盤をけずって水量調節装置を設置し、
堤防内側の護岸を強固にしました。
また、空海は工事の様子が見渡せる岩山に上り、護摩壇(ごまだん)を設けて火を焚くと、
一心不乱に経文を唱えたのです。

 
いに、工事は完成しました。わずか三ヶ月でした。
満濃池の工事では、超人的な空海の活躍が際立ちますが、空海を招いた清原夏野の判断や、
多度郡における佐伯直氏の伝統的な求心力も大きかったのです。

 
お、清原夏野は、他国の人々からも慕われ、
私費で大輪田泊(おおわだのとまり<兵庫港>)を修復し、のちに右大臣となりました。


㉒ 栃木県(とちぎけん)

下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)

【大宝律令作成の責任者】


 宝元年(七〇一)四月七日、下毛野朝臣古麻呂は、
鍛造大角(かぬちのみやつこおおすみ)、道君首名(みちのきみおびとな)とともに
「大宝律令」を講義するため、皇族や官僚、役人たちのもとへ向かいました。
この年の三月二十一日、わが国の基本法典が完成し、ようやく施行に向けて、
皇族やさまざまな役人を前に編纂の責任者が、講義をするためです。

 
宝律令の編纂には、藤原不比等を中心に渡来系の人々や当代きっての学者が集いました。
そのなかで古麻呂は、下野国の大豪族、下毛野君の血筋を引く人物でした。
古麻呂は、持統天皇三年(六八九)に六〇〇人の奴婢(ぬひ)を解放した人物です。
家に仕える人々が、六〇〇人もいたとは、当時の地方豪族の勢力がいかに大きかったか。
驚くべき数字です。
古麻呂は、このとき直広肆(じきこうし)という従五位下(じゅごいげ)相当の位でした。
これは、貴族の末席にあたります。

 
位の高さから、古麻呂は早くから都に上り、学者の道を志していたと考えられます。
六〇〇人という奴婢は、都でかかえた奴婢ではなく、故郷の下野国に残した財産でしょう。
しかも、下野国に親戚が残っていたでしょうから、まだまだ膨大な耕地や山林、
そして多数の奴婢を温存していたかもしれません。

 
世紀の末、下野国河内郡(下野市)に下野薬師寺が建立されます。
下野薬師寺は、のちに僧侶が受戒する「戒壇院」が設置されます。
この寺は、下毛野氏の氏寺として建立され、のちに「官寺」となった大寺院です。
その成長は、古麻呂の出世と歩みをともにしていました。

 
麻呂は、大宝二年(七〇二)、従四位下となり、いよいよ国政に参画します。
そして、大宝律令の功績により功田三〇町、封戸一五〇戸を賜ります。
その後、兵部卿、式部卿など閣僚を歴任しました。
そして、和銅二年(七〇九)十二月、古麻呂は、その生涯を閉じたのです。



㉑ 長野県(ながのけん)

金刺舎人八麻呂 (かなさしのとねりはちまろ)

【恵美押勝の乱で活躍した牧の別当】


 濃国伊那郡(飯田市)から、孝謙天皇の宮を護衛する舎人として出仕していた
金刺舎人八麻呂は、恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂、なかまろ)が
乱をおこすと、その鎮圧戦で大活躍をします。
おそらく、馬を巧みに扱って押勝軍を撃破したのでしょう。
なぜならば、八麻呂は、古墳時代以来、伝統的に馬を飼育し、
朝廷に貢納し続けた伊那谷の出身だったからです。

 
麻呂は、天平神護元年(七六五)、軍功によって勲六等という勲位を得、
また、外従五位下(げじゅごいのげ)を賜りました。
この位は、地方豪族としては破格で、国司と並ぶ位でした。
八麻呂は、その三年後、伊那郡の大領、信濃国の牧別当(まきのべっとう)として
登場します。
宮中の警護の職から地元の郡司となり、
信濃国内の牧場を管理する役人を兼務したのです。

 
美押勝の乱の後、京内の軍事力は、天皇が集中支配することとなります。
そのため、騎乗用の馬を直接管理する内厩寮(ないきゅうりょう)が置かれました。
その役所へ馬をおさめる政府直轄の牧場(御牧<みまき>)の
責任者(別当<べっとう>)となったのです。
別当は、のちに牧監(もくげん)とよばれ、信濃国に二人置かれました。
一人は、牧の中の牧と呼ばれた望月牧(東御市)専属の役人、
一人は信濃国にたくさんあった御牧の管理にあたりました。

 
ころで、八麻呂の故郷、伊那谷は、朝廷の馬を産出するばかりではなく、
東国諸国からの税や年貢が必ず行き交う場所でした。
また、飛鳥時代の末には、恒川遺跡に早くも役所が建てられ、
岐阜県東部や浜名湖などで作られた須恵器が、そこで積極的に使われるなど、
交流の結節点でした。

 
かし、木曽路が新たに設けられ、信濃国府が筑摩郡(松本市)へ移ると、
伊那谷の重要度は低下し、次第に物資の流通も
伊那谷から木曽谷へと移って行きました。




⑳ 大分県(おおいたけん)

大分君恵尺と稚臣(おおきだのきみえさかとわかみ)

【壬申の乱の功臣】


 申の乱で大分君恵尺と稚臣は、大活躍をしました。

 
ず、大海人皇子(後の天武天皇)の側近として仕えていた恵尺は、
皇子から飛鳥の古宮の留守司(近江朝廷側)が持つ駅鈴を奪取するか、
近江京(滋賀県大津市)から大海人皇子の子どもの高市皇子と大津皇子を
つれ出すように命令されました。
駅鈴の奪取には失敗しますが、皇子らを伴い、伊勢国で合流することに成功します。

 
っぽう、飛鳥の古宮の留守司が、大海人皇子の動静を近江朝廷に伝えたことで
壬申の乱が始まります。
大海人皇子軍は、伊勢から尾張、美濃と進み、軍勢を急速に拡大して近江京に向かいました。
そして、都の入り口、勢多の唐橋(大津市)で近江朝廷軍とにらみ合いとなります。

 
の硬直を打ち破ったのが、大分君稚臣でした。
かれは、よろいを重ね着し、雨のように飛んでくる矢にあたりながらも、
先頭を切って唐橋をわたり、勇猛果敢に近江朝廷軍に向かったのです。
その勢いに大友皇子郡は戦力を失い、武将の智尊(ちそん)も橋のたもとで斬られ、
ついに総崩れとなったのです。

 
のように大分君恵尺と稚臣は、壬申の乱を大海人皇子側を勝利に導く
画期的な活躍をし、乱後も皇子によく仕えました。
二人の臨終のとき、天武天皇となった大海人皇子から
恵尺は、外小紫位(げしょうしい:従三位<じゅさんみ>)、
稚臣は外小錦上(げしょうきんじょう:正五位上<しょうごいじょう>)という
貴族に匹敵する地方豪族では破格の位を賜りました。

 
分市の郊外、三芳町の小山の中腹に小さな古墳があります。古宮古墳です。
畿内の豪族や皇族、官人たちの墓で採用された
「石棺式石室」という構造の横穴式石室を築いています。
畿内以外にはめったにない型式の古墳であることから、
天武天皇の側近として活躍した恵尺か稚臣の墓と考えられています。
とすると、大分市の郊外には、古宮古墳のような古墳が、
もう一つまだ眠っているのかもしれません。



⑲ 島根県(しまねけん)

出雲臣廣島(いずものおみひろしま)

【『出雲国風土記』をまとめた男】


 良時代の初め、元明(げんめい)天皇は、国ごとに『風土記』の作成を命じました。
『風土記』は、各地の物産や自然、村、神社、寺、道路、伝説などをまとめた地理の本です。
現在、五つの国しか残っておらず、しかも完全に近い形で残っているのは、
わずかに『出雲国風土記』だけです。
この『出雲国風土記』をまとめた最高責任者が、出雲臣廣島でした。
 
 
雲臣廣島は、国府の意宇(おう)郡(松江市)の長官(大領)であり、出雲国の国造でもありました。
国造は、飛鳥時代以前、地方の代表する有力豪族に与えられていました。
しかし奈良時代以降は廃止され、わずかに紀伊国や出雲国などに残されました。
つまり、廣島は、出雲国を名実ともに代表する人物だったのです。
 
 
て、『出雲国風土記』に十一の寺がみられます。
それぞれ、塔や「厳堂」(金堂)などの建物、建立した人、僧の有無などが記されました。
しかし、名前が分かるのは、教昊(きょうこう)という僧が、
意宇郡に建てた教昊(きょうこう)寺だけです。
ほかは、「新造院」とだけの記載です。
意宇郡は、廣島が、長官を務める郡でしたから、
彼が思いをこめて、この寺だけを記したのでしょう。
 
 
国の風土記の中で『出雲国風土記』は、天平五年(七三三)に
最も遅れてできあがったといわれています。
こんなところにも、廣島の出雲国造としての反骨精神がみられるのかもしれません。
 
 
お、意宇郡山代郷(松江市)の新造院とされる来見(くるみ)廃寺は、
発掘調査され、仏堂の礎石などが明らかとなっています。

⑱ 秋田県(あきたけん)

渟代蝦夷沙尼具那(ぬしろのえみしのさにぐな)

【最北の郡司となった蝦夷】



 明天皇四年、五年、六年と続けて阿倍比羅夫は、
東北地方北部から北海道に大遠征を行いました。
二百隻にも及ぶ軍船を繰り出し、行進、日本海を北上したのです。
とくに四年の遠征では、阿倍比羅夫の船団が、
齶田浦(あぎたうら、秋田市雄物川河口付近)に停泊したとき、
齶田と渟代(能代市)の蝦夷たちは、肝を冷やして恭順してきました。

 
こで齶田の蝦夷の代表(首長)だった恩荷(おが)に
小乙上(しょうおつじょう、従八位上(じゅはちいじょう))の冠位を授け、
渟代と津軽(青森県津軽か)の蝦夷たちを郡司に任命したのです。
比羅夫は、越国の国守でしたから、郡をたてる立案をしたり、
郡司の候補者を推薦する権限はありました。
しかし郡をたてる決定権や郡司の任命権はありません。
ですから郡司の候補者となった恩荷や渟代と津軽の蝦夷たちは、
都に上らなければなりませんでした。

 
百人余りの蝦夷とともに朝廷に招かれた恩荷らは、盛大にもてなされました。
そして、渟代郡大領(たいりょう)の沙尼具那(さにぐな)や少領(しょうりょう)の宇婆佐(うばさ)、
津軽郡の大領馬武(まむ)や少領青蒜(あおひる)、さらに彼らの従者に冠位が授けられました。
そのうえ、鮹旗(たこはた)、鼓(つづみ)、弓矢、鎧(よろい)といった武器が与えられたのです。

 
かし、アメばかりではなく、ムチがありました。それは、人口調査を命じられたことです。
人口調査は、税を計画的かつ正確に収取する前提条件だからです。
国家に税を払う必要のなかった蝦夷たちは、こうして古代国家に取り込まれていったのでした。


⑰ 千葉県(ちばけん)

他田日奉部神護(おさだのひまつりべのじんご)

【海上郡の大領になりたかった男】


城京の左京七条に住んでいた他田日奉部神護は、
五十代にさしかかったので、ふるさとの下総国海上郡(千葉県銚子市付近)に帰り、
大領になりたいと願い出ました。
その嘆願書が、奈良県の東大寺正倉院に残されています。

 
後が、都の下級官人となったのは、養老二年(七一八)のことでした。
兵部卿(ひょうぶぎょう)である藤原房前(ふささき)について、
警固や雑務をおこなう資人(しじん)として仕えたのです。

 
前は、大宝律令を選定した不比等の子、大化の改新で立ち上がった中臣鎌足の孫で、
藤原北家の祖となった人物です。
房前には、神亀五年(七二八)までの十年間仕えました。
 
 
の後、皇后や皇太后などを警備する中宮舎人(ちゅうぐうのとねり)として、
二十年間務めました。その間、神後は、長屋王の変、橘奈良麻呂の変、
そして天然痘の猛威にも直面したことでしょう。

 
来、神後の家系は、海上郡の郡司の家系でした。
海上評(郡の前身)が建てられた孝徳朝の大化五年ころ、
祖父の忍(しのぶ)が次官の少領(しょうりょう)となり、天武朝には、父の宮麻呂が少領、
そして元明朝では、兄の国足が、大領として務めていました。
国足の跡を継ぐ子の死亡のような、事件が国元で起きたのでしょう。
急遽、大領を嘆願する必要が神後に訪れたのです。
神後の仕えた元明天皇が亡くなり、仲麻呂政権へ傾斜していったことも、
郡司へ転身しようとしたきっかけだったかもしれません。

 
司には、伝統的権威が残る国造家が優先的に選ばれました。
しかし、大領になるためには、国司の推挙や式部省の難しい試験に
合格しなければなりません。また、位階も必要でした。
そのいっぽう、資人や舎人として都で長年にわたり務めた功績も、
神後を大領とするには十分でした。

 
後は、都から海上郡にUターンし、骨を埋めたことでしょう。
房総半島では、都でしか手に入れることのできない奈良三彩の壺や
灰釉陶器の短頸壺などが、しばしば墓跡から出土することがあります。
神後のような舎人が、故郷に戻り、故郷の墓に葬られた証でしょう。



⑯ 長崎県(ながさきけん)

長岑諸近(ながみねのもろちか)

【刀伊(とい)に拉致された高麗国からもどった男】


仁三年(一〇一九)三月二八日、刀伊が、対馬島を襲い、略奪の限りを尽くし、
続いて壱岐、そして筑後国の怡土(いと)、志摩、早良(さわら)、
肥前国の松浦の諸郡を襲い、風のように再び北の海に逃げました。
刀伊の悪行は、十六日間におよび、馬や牛、犬までも切っては食べ、
大人の男女は拉致し、老人と子供はことごとく切り殺したといいます。
死者三七〇人、捕虜一二八〇人、死んだ牛馬三九〇頭におよびました。

 
の貴族、藤原実資(さねすけ)は、数奇な体験をした対馬の役人、
長岑諸近と対馬の住人、多治比阿古見(たじひのあこみ)の体験を
日記『小右記(しょうゆうき)』に記しています。

長岑諸近は、対馬の判官代(ほうがんだい)という地元の役人でしたが、
母、伯母、妹、妻子、従者ら十人余りとともに刀伊の海賊船に拉致されました。
刀伊は、九州北部に来襲すると再び対馬に立ち寄ったところ、
諸近だけが、すきを見て脱出に成功します。

 
かし、家族を賊の船に残して逃げた諸近は、悔(く)やみに悔やみ、
ついに国禁を犯して小舟を盗み、高麗へ渡ったのです。
諸近は、通訳の仁礼(じんれい)を通して、家族を探しました。
しかし、伯母一人を助けるのが精いっぱいでした。
ちょうどそのころ、同じく対馬から連れ去られた多治比阿古見ら三十人が、
高麗の兵船に助けられ、釜山(プサン)付近に逗留していました。

 
のころ、日本は、鎖国をしていたわけではありませんが、
国府の役人が、かってに私事で外国に渡ることは、許されませんでした。
しかし諸近は、高麗国も刀伊の襲撃問題に手を焼き、
日本と共同歩調を望んでいることを朝廷に伝えました。
また、阿古見ら捕虜を連れ帰ることで、ようやく帰国できたのです。

⑮ 北海道(ほっかいどう)

伊奈理武志(いなりむし)

【朝廷に朝賀した渡嶋蝦夷:わたしまのえみし】


海道の道央・道東に住む「渡嶋蝦夷」の伊奈理武志と、
沿海州に住む「粛慎(みしはせ)」の志良守叡草(しらすえそう)が、
飛鳥の二槻宮(ふたつきみや)を訪れ、持統天皇に謁見しました。
持統天皇十年(六九六)のことです。
伊奈理武志と志良守叡草は、日本の支配がまだ及ばない北方の地域から訪れた客人(まれびと)でした。

 かも、ただの客人ではありません。
「渡嶋蝦夷」と「粛慎」と呼ばれた地域集団の代表、族長として、
北海道からはるばる天皇の住む宮へ赴き、天皇に謁見したのです。
そこで天皇は、錦袍袴(にしきのきぬはかま)・緋縹絁(ひはなだのふとぎぬ)・斧などを賜りました。
錦袍袴は、模様を織り込んだ絹で作った上着と袴、緋縹絁は、

赤と縹色(薄い藍色)の太織りの絹、そして鉄の斧でした。

 明との接触は、二人にとって驚異的だったでしょう。
二人は、錦袍袴を身につけ、渡嶋や粛慎に凱旋したはずです。
また、持ち帰った斧は、宝物として大切に保管されました。
鉄製品は、このころの北海道では、作っていなかったからです。
ですから、持ち主とくに男性が死亡すると、大切に墓へ副葬されました。

 の墓は、江別市や恵庭市などで、北海道式古墳、東北地方北部では末期古墳と呼ばれます。

径三~七メートルで高さ一メートルにも満たない小さな古墳が、群集することが特徴です。
その墓には、斧や鋤の先、鎌、蕨手刀(蕨のような形の持ち手のある刀)、

勾玉など本州島の文物が、副葬されました。
 
 のなかには、律令国家の官人が腰にしめた帯の飾り金具までありました。
この金具は、陸奥・出羽国の官人と接触したか、この帯を下賜された人物がいたことを物語っています。

⑭ 富山県(とやまけん)

利波臣志留志(となみのおみしるし)

礪波の豪族から伊賀国司となった男


平十五年(七四三)、聖武天皇は、奈良の東大寺に大仏をつくる詔を出します。
しかし、度重なる造都、疫病や飢饉などで国家財政は瀕死の重傷でした。
もともと古代国家には、大仏はおろか、東大寺を運営する財源などありませんでした。
そこで、目を付けたのが、地方豪族の持つ莫大な富と労働編成力でした。

 
代国家は、東大寺に五〇〇〇町という途方もない開発許可権を与え、
土地や財源、労働力を提供してくれた地域の豪族に位を与え、
その開発と運営を担わせたのです。
墾田永年私財法が、同じ年に出されたのは、
このシステムを円滑に進めるためのアイデアでした。

 
波平野に基盤を持つ利波臣志留志もその一人でした。
志留志は、天平十九年(七四七)、大仏をつくるために三〇〇〇石の米を寄進しました。
奈良時代の倉庫の規模からすると、志留志の家に三〇〇〇石の米が、
そのまま備蓄されていたとは考えられません。
志留志のもついくつかの経営拠点(「宅(やけ)」)に分置されていたか、
買得して揃えたのでしょう。
そして、志留志は、外従五位下(げじゅごいのげ)を授けられます。

 
波臣は、越中国(えっちゅうこく)きっての名族でした。
『古事記』や『越中石黒系図』『越中国官倉納穀交替記』などに登場し、
数世紀にわたって礪波(となみ)郡を牛耳っていた一族だったのです。
ただ志留志は、傍流だったらしく、天平神護元年(七六五)、
仲麻呂政権が瓦解すると、墾田百町を東大寺に寄進し、
中央官人としての道を歩み出しました。
翌年、越中国司の一人として、東大寺の荘園の運営状況を視察に来ています。

 
の後、志留志は、仲麻呂政権や道鏡政権を巧みに渡り、
東大寺ととても関係の深い伊賀国(いがこく)の介(すけ)になるまで、
中央下級官人として生き抜いたのでした。

⑬ 岩手県(いわてけん)

大墓公阿弖利為(たものきみあてるい)

【古代国家に狼煙〈のろし〉を上げた蝦夷】


 古代国家は、飛鳥時代以降、まず文物の交流を通じて、蝦夷の社会に触手を伸ばしました。

蝦夷が、貢ぎ物を送り、国家が祝宴や贈り物、位(くらい)を授けるという交流は、

次第に貢ぎ物が税となり、服従の証しとなっていきます。

しかし、当然のように税を求める国家と、その義務を不当とする蝦夷との間で摩擦が生じました。

神亀元年(七二四)以降、陸奥国司の殺害、

伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)の乱などの事件となりました。


 阿弖利(流)為(あてるい)が、政府軍との戦いに加わり、

戦闘能力を高めていったのは、砦麻呂の乱ごろでしょう。

勇猛果敢な阿弖利為の活躍は、次第に彼を蝦夷のリーダーとしていきます。

そして、延暦八年(七八九)の胆沢の合戦で、政府軍を撃退するまでに成長したのです。


 阿弖利為は、四〇〇〇人の政府軍を敵に回し、ゲリラ戦で壊滅的打撃を与えました。

北上川の左岸に家を構える阿弖利為は、周囲の地形をよく知り、

相手の軍勢を急峻で狭い路に誘い込むと、矢を射こみました。

重い甲冑(かっちゅう)を付けた兵士は、ことごとく北上川に沈んだといいます。

政府軍は、二六〇〇人余りを失いましたが、

蝦夷も十四村八百余棟を焼かれるなど甚大な被害となりました。


 その後、延暦十年(七九一)、延暦十六年(七九七)と、

政府軍は遠征しましたが、決着がつきません。

胆沢(いさわ)平野は荒廃し、蝦夷たちは疲弊しました。

そして、延暦二十年(八〇一)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の登場によって、

ついに阿弖利為は、蝦夷の戦士五〇〇人を率いて投降したのです。


 田村麻呂は、阿弖利為らを丁重にもてなすと、都へ連れて上りました。

阿弖利為の統治能力は、これからの蝦夷支配には欠かせないと、

田村麻呂は、貴族たちに助命嘆願をしました。

しかし、貴族たちは、「虎を養って余計な心配を残す」と、斬首の刑としたのでした。


 そして翌年、奥州市に胆沢城(いさわじょう)が築かれたのです。

⑫ 佐賀県(さがけん)

山春永(やまのはるなが)

【新羅に渡ろうとした豪族たち】


 観八年(八六六)七月十五日、大宰府から驚愕の事件が報告されました。
『日本三代実録』によると、基肄(きい)郡(鳥栖市)の郡司、
山春永(やまのはるなが)をはじめとする四十五人が、
新羅国へ渡って、新式の兵器を習い、新羅人とともに対馬を攻撃しようとしていたことが、発覚したのです。

 れは、この計画を進めるため春永が、
同じ郡の川邊豊穂(かわべのとよほ)に相談を持ちかけたところ、
豊穂があわてて大宰府に報告したのです。
大宰府は、事の重大さに驚き、京の都へ向けて火急の使者を駆けさせました。
朝廷は、どのような処罰を下したのか、明らかではありません。
おそらく烽火の点検や山城の強化などが行われたことでしょう。

 て、この新羅密航計画に加わった者は、
春永のほかに藤津(ふじつ)郡(鹿島市)の郡領(ぐんりょう)葛津貞津(ふじつのさだつ)、
高来(たかぎ)郡(長崎県島原市・諫早市)の擬大領(ぎたいりょう)大刀主(たちのぬし)、
彼杵(そのき)郡(長崎市・佐世保市・大村市)の永岡藤津(ながおかのふじつ)の
あわせて四人がわかっています。いずれもみな郡司や郡司に匹敵する豪族たちです。

 の計画は、新羅の商人、珎寶長(ちんほうちょう)が持ちかけた話でした。
彼は、玄界灘沿岸の郡や博多などの公式ルートを経由せず、
有明海等の諸郡と直接、私貿易を行っていたようです。
この計画に参画したのが、筑後川から有明海、島原湾、橘湾、角力(すもう)灘に広がる地域の郡司たちでした。
壱岐や対馬と直結する肥前国松浦郡や筑前国志麻郡などは、含まれませんでした。

 れらは、新羅国へ渡り新式の「弩(ど)」の取り扱い方を習い、対馬国を攻撃し、占領しようとしたのです。
「弩」は、「おおゆみ」、「いしゆみ」ともいい、発射装置のついたボーガンのような武器です。
日本では、各国府に備えられ、陸奥や出羽などの城柵では、弩を用いた演習も行われていました。
この事件以後、弩の射手四十五人の名を連ねた名簿が、大宰府へ進められたといいます。

 紫君磐井をはじめ、藤原広嗣、そして藤原純友など九州北部の人々は、
国家とは別のネットワークを朝鮮半島の人々との間にもち続けていたのです。



⑪ 群馬県(ぐんまけん)

上毛野朝臣三千(かみつけぬのあそんみちち)

【大富豪の歴史を記した男】


 つて群馬県は、上毛野国(かみつけぬのくに)と呼ばれ、
上毛野君(かみつけぬのきみ)という大豪族が住んでいました。
それを裏付けるように、八千基を超える古墳や東日本最大の前方後円墳が、
群馬県には造られました。
 
 の上毛野君をめぐる数々の逸話が、『日本書紀』に登場します。
それは、上毛野君の出自の話、蝦夷との戦いの話、
朝鮮半島への出兵の話などです。
これらの話は、『日本書紀』の編纂にかかわった
上毛野朝臣三千(かみつけぬのきみみちち)が、
自らの家の歴史を盛り込んだからでしょう。
『日本書紀』には、持統天皇五年(六九一)、
この国を支えてきた十八の豪族に、それぞれの家の歴史を記した
『墓記』を提出させたとあります。
 
 千は、白村江の戦で朝鮮半島にわたった上毛野君稚子(わくご)、
舒明天皇のころ蝦夷征討に向かった上毛野君形名(かたな)、
武蔵国造の乱にかかわった上毛野君小熊(おぐま)などは、
生々しい記憶として『墓記』に盛り込んだことでしょう。
また、上毛野君が豊城入彦命を先祖とすることやその子や孫の八綱田(やつなだ)王、
彦狭島王(ひこさしまおう)、御諸別王(みもろわけおう)などが、
東国を治めた将軍という伝承もあります。
 
 かし、意外にも小熊を除くと、上毛野国にかかわる事績は
『日本書紀』などに書き残されていないのです。
すでに稚子や三千のころには、
都へ上って官人となったためでしょうか。
けれども、上毛野氏は、上毛野国に絶大な権力と経済力を保ち続けていたのです。
六世紀末以降から、前橋市総社町には二子山古墳、
愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳を築き、
三千のころ、山王廃寺という白鳳寺院を建てたのです。
 
 の後も、勢多郡(前橋市)の大領、上毛野朝臣足人(たると)が、
上野国分寺の建立にあたり、自らの莫大な財物を提供し、
外従五位下(げじゅごいのげ)を賜わるなど、その勢いは衰えませんでした。



⑩ 奈良県(ならけん)

葛城長江曽都毘古(かつらきのながえのそつひこ)

【実在した最古の豪族】


 和盆地の南西、葛城地域には、たくさんの古墳があります。

古代王権を構成した中央豪族の葛城氏にかかわる古墳です。

葛城氏の中でも葛城の長江に住む曽都毘古は、

『日本書紀』や『古事記』あるいは『百済本記』などに登場し、

実在した最古の豪族といわれています。

 

都毘古は、四世紀末から五世紀初めに新羅との外交や戦争で、

古代王権の代表として活躍した人です。

曽都毘古は、新羅の人質を送り返す途中、人質が逃げたので、

新羅で戦い、蹈鞴津(たたらつ)や草羅城を落し、捕虜を倭国へ連れて帰りました。

そして、曽都毘古は、葛城の桑原、佐糜(さび)、高、忍海という村を作り、

新羅の人々を住まわせました。

 

のひとつ、高邑(むら)(葛上郡高郷、〈御所市長柄〉)に

営まれた豪族の家が、発掘調査されています。長柄遺跡です。

二列の石垣とそれに挟まれた濠の中からは、刀の束や剣の鞘、弓などの武器、

機織りの道具、鍬や鋤などの農具、漆を充填した壺などが出土しました。

また石垣に囲まれた内側では、鉄製品を作ったり、

青緑色の石を加工したアクセサリーなども作られたりしていました。

 

た、桑原邑(葛上郡桑原郷、〈御所市南郷〉)にあたる南郷遺跡群では、

住居群や倉庫群、房群、祭祀施設などが発見されています。

なかでも南郷安田(やしだ)遺跡では、

全国で最大の規模をほこる建物跡が発見されました。

周りに縁をめぐらせた重層の高殿とされます。

また、南郷大東遺跡では、小河川にダムを築き、そこから浄水を樋管で導びいて、

覆い屋の建物の中を浄水が通り抜けるという類い稀な施設が発見されています。

 

お、室大墓といわれる山古墳(全長二三八メートル、前方後円墳)が、

近年発掘調査され、出土した朝鮮半島南部の土器や大型の石棺、大型船の埴輪などから、

曽都毘古の墓ではないかといわれています。




⑨ 神奈川県(かながわけん)

漆部直伊波(うるしべのあたいいわ)

【遠隔地交易を行った豪族】


 良時代前半、相模国は、平城京に

「調邸(ちょうてい)」という在京事務所を設けていました。

調邸は、相模国の特産物を平城京の東西市で交換するための施設でした。

その「調邸」と相模国を行き来した下級官人に漆部直伊波がいました。

伊波は、相模国内で集められた税金の調を運ぶばかりではなく、

調以外の手工業品や加工食品などを都へ運び、市を通じて売買し、

その利益で莫大(ばくだい)な富を築いていたのでした。

 

もそも平城京には、都の中心を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)を挟んで、

東西に公設の「市」が設けられていました。

市では、時価に応じた取引が行われ、

肆(いちくら)と呼ばれる店舗で売買されていたのです。

 

には、絁(あしぎぬ)、羅(ら)、糸、布、綿(まわた)などの繊維製品、

櫛、針、筆、墨、薬などの日用品、大刀、弓、箭(や)などの武器、

米、麦、塩、醬(しょう)、

索餅(そうめん)・海藻(わかめ)・菓子・干魚(ほしざかな)・生魚などの食料品、

金属、染料、油、木器、そして牛馬までが売られていました。

 

っぽう、相模国では、布、綿、蜜柑、薬草、木材、紙の原料、

硫黄、鰒(あわび)、鰹、海草などが、税として集められ、都に運ばれていました。

相模国調邸は、これらの過不足を東西市で調整するための機能を持っていたのでしょう。

 

平勝宝七年(七五五)、この相模国調邸が、東大寺に売却されます。

その売買契約書が、東大寺の正倉院に残っています。

東大寺は、たくさんの僧侶や写経師、官人を抱える巨大組織でしたから、

東西市に隣接したこの土地に物品をストックする倉庫や事務所を建て、

商業活動を行ったのです。

 

波はその後、東大寺の下級官人としても活躍していくのでした。





⑧ 三重県(みえけん)

飯高諸高(いいたかのもろたか)

【四人の天皇に仕えた水銀王の娘】


 明天皇、聖武天皇、孝謙・称徳天皇、淳仁天皇の
四人の天皇に仕えた飯高諸高は、采女(うねめ)中の采女と呼ばれました。
采女は、全国の郡司の娘から、とくに容姿端麗な理知的な女性が、
選りすぐられ、宮内省の女官となりました。
江戸時代の大奥と違うのは、あくまでも女性の役人だったことです。
 
 て、諸高は、伊勢国飯高郡の郡司の娘に生まれました。
飯高郡を流れる櫛田川流域の丹生郷(多気郡勢和村丹生)では、
古くから水銀の採掘が盛んで、諸高の家は、水銀王の家でした。
水銀は、辰砂(しんしゃ)とよぶ硫黄と水銀の化合物で
深紅色をした鉱石として採掘され、それを焼いて取りだします。
 
 して水銀は、金属と合金を作ることが容易なため、
金や銀の鉱石から、金や銀を取り出し、
また沸騰させて水銀を飛ばして金鍍金(メッキ)や銀鍍金を行うのです。
水銀は、金銀装飾品、仏像の鍍金などには、なくてはならない魔法の金属でした。
 
 のため、伊勢国の特産物として、
毎年、四〇〇斤が朝廷の内蔵寮(くらりょう〈財産管理を行う役所〉)へ、
十八斤が典薬寮(てんやくりょう〈薬の生産や管理をする役所〉)に納められました。
税としてだけではなく、私的な採掘も盛んで、
諸高の家は、そうした水銀採掘によって潤っていたのです。
 
 はいうものの、諸高が、最高の女官として宮中で働き、
政争渦巻く激動の奈良時代を生き抜いた「スーパー女官」で
あったことに違いはありません。ただ、地方豪族の娘が、
「性甚謙謹(しょうじんけんきん)・志慕貞潔(しぼていけつ)・典従三位(てんじゅさんみ)」
という高位に上りつめたのは、親の経済力ばかりではありません。
元正天皇や元明天皇を慕い、二人の眠る奈保(なお)山に葬られたことが示すように、
仏教に帰依し、個人的にも深いつながりがあったためでしょう。
 
 お、飯高郡には、水銀王の子孫、飯高宿諸氏(いいたかのすくねもろうじ)の
建てた近長谷寺(きんちょうこくじ)という寺が、今でも法灯を守っています。
 


⑦ 沖縄県(おきなわけん)

鳥了帥(ちょうりょうすい)

【ヤコウガイを手にした豪族】


 徳太子が、大国「隋」に小野妹子を遣わしたころ、
「流求(りゅうきゅう)」に、鳥了帥という豪族たちがいました。
鳥了帥は、波羅壇洞(はらたんどう)という城に住む
「流求」の王に仕える村の長たちです。
中国の『隋書』「流求伝」には、このころの「流求」の社会や風俗、
文化などが詳しく伝えられています。
 
 の皇帝煬帝(ようだい)は、「流求」を従えるため、
朱寛(しゅかん)という使者を数回にわたって遣わしました。
ところが、「流求」の王は、鳥了帥ら豪族たちと団結し、追い返したというのです。
 
 ころで、この地域では、ヤコウガイをさかんに採っていました。
中国に輸出されて螺鈿(らでん)細工の材料となったからです。
螺鈿とは、ヤコウガイの貝殻を薄板に裁断し、
表面の緑色の層をていねいに磨いて真珠層を出し、
そのキラキラしたかけらを木や漆の上にはめ込み、
美しい文様を造り出す細工物です。
 
 の原料のヤコウガイは、サザエ科の巻貝です。
水深十メートルの海に棲み、夜に活動する二十センチぐらいの貝です。
奄美大島の小湊フワガネク遺跡群やマットノ遺跡では、
このヤコウガイがたくさん加工されていました。
ヤコウガイは、サンゴ礁の縁の深みに集まります。
ですから、サンゴ礁近くの砂浜に加工場が造られました。
素潜りを得意とする人々が住み、たくさんのヤコウガイを採っていたことでしょう。
 
 て、ヤコウガイは、中国の商人たちのもたらす鉄製品と交換されました。
しかし、唐の国力が落ちた九世紀以降になると、
日本の貴族たちが、この神秘の貝をこぞって求めたのです。
需要の増加は、日本国内の螺旋細工工人の技術力を向上させました。
そして、ついに我が国の螺鈿細工は、唐や宋の国に輸出するまで成長したのです。
 
 「流求」の王に仕えた鳥了帥は、ヤコウガイをめぐって、中国商人とわたりあったことでしょう。





⑥ 鳥取県(とっとりけん)

伊福吉部徳足比売(いおきべのとこたりひめ)

【薄命の采女〈うねめ〉】


鳥時代の末、鳥取県から藤原京に采女として召された

伊福吉部徳足比売という人がいました。
采女とは、天皇や皇后の食事や宮中のさまざまな儀式の
準備などをつかさどる女性の官人のことです。
采女には、誰でもなれたわけではなく、
美貌と才能を備えた地方豪族の娘だけがなれました。
 
 くは、地方豪族が、服属の証拠に娘を人質として、
宮中に差し出したのが始まりといわれています。
それが、次第に地方豪族の出世や中央進出の足掛かりとなったのです。
 
 はいえ、十代後半の女性が、
右も左もわからない飛鳥の都で仕事と生活を両立し、
心労が重なったのでしょう。
徳足比売は、わずか二年足らずで亡くなってしまいます。
娘の死を憐れんだ因幡国法美(ほうみ)郡の郡司だった伊福部氏は、
ふるさとに娘の墓を造りました。
その墓には、とても貴重な銅でつくられた蔵骨器を納めたのです。
その蓋に彼女の業績が刻まれ、死亡の日付が書かれました。

 武天皇に采女として仕えたこと、
慶雲四年(七〇七)に従七位下(じゅうしちいげ)となったこと、
和銅元年(七〇八)七月一日に藤原京で亡くなり、
三年間の殯(もがり)の後、同三年(七一〇)十月火葬され、
十一月十三日に因幡国に葬られたことなどが記されていました。

 の蔵骨器は、江戸時代に鳥取市国府町宮下の無量光寺の境内から掘りだされ、
現在は、東京の国立博物館に展示されています。
小さな盆地をゆるやかな山並みがつつみこむ無量光寺周辺は、
因幡国府や法美郡家、岡益の石堂のような寺院など、
文化・行政施設の集中する地域です。
徳足比売は、飛鳥の都から帰り、ここに眠り続けていたことでしょう。





⑤ 宮城県(みやぎけん)

道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)

【陸奥の豪族から都の貴族となった男】


美押勝(藤原仲麻呂)の乱をきっかけとして、

貴族の仲間入りをした陸奥の豪族がいました。
陸奥国牡鹿(おしか)郡(石巻市・東松島市)出身の道嶋宿禰嶋足です。
嶋足は、牡鹿郡司の家の子でしたから、舎人として早くから都に上り、
軍事や警察にかかわる役所で仕えていました。
もともと嶋足は、からだも容姿も勇壮で怖いもの知らず、
そして走る馬から弓矢を放つ技に長けた人物でした。

 の名は、天平宝字元年(七五七)、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、
都でクーデターを起こしたとき鎮圧に向かい、
武功をあげたことで、すでに有名になっていました。
そして、同八年(七六四)に起きた恵美押勝の乱では、
孝謙上皇、道鏡方について仲麻呂の息子、藤原訓儒麻呂(くずまろ)を倒し、
天皇の持つ印鑑(御璽、ぎょじ)と駅鈴(えきれい)を
奪い返すという大活躍をしたのです。
 
 足は、従七位上から従四位下と十一階も位を進め、
天皇の親衛隊である授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)の少将と、
相模国の守を賜ります。その後も武官の道を歩み、
近衛府(このえふ)の中将と下総国の守、
播磨国の守など大国の守を兼務していきます。

 足の都での出世は、地元の道嶋一族を陸奥国府の役人や
牡鹿郡の大領、征夷軍の武将に抜擢させ、伊治(いじ)城や
覚鱉(かくべつ)城などの造営を担うなど、急成長させました。
道嶋氏が、征夷に積極的だったのは、
房総半島の千葉県東総地方から来た移民系豪族だったからでしょう。
このころ、宮城県北部では、従来からの豪族と、北方の蝦夷、
そして移住してきた豪族が、複雑に勢力を競っていたのです。

 総地方と牡鹿地方では、このころ共通した考古学資料をみることができます。
鍔(つば)に二つ穴のある鉄刀、関東地方の土器と共通した土器、
海岸の崖に無数に開いた横穴墓などです。
道嶋氏の出身を語る絶好の考古学的資料です。



④ 愛媛県(えひめけん)

越智常世(おちのつねよ)

【平安の相撲人(すまいびと)】


安時代、旧暦七月下旬、宮中で相撲の節会が行われました。
全国各地から力自慢の男たちが、国司によって集められ、
伊予国からも越智郡から、越智常世という猛者が都に召されました。


 
世は、永延元年(九八七)、「助手(すけて)」として史料に登場します。
助手とは、大関にあたります。
その一三年後には、横綱にあたる「最手(ほて)」として全盛期を迎えます。
その常世に怪力でならした助手の御春時正(みはるのときまさ)が挑戦しました。
常世は接戦の末、からくも時正をねじ伏せることができました。
これを見ていた貴族たちは、口々に「神妙」と叫んだそうです。
 

た、久光(ひさみつ)という相撲人は、長く伸ばした爪で
常世をひっかいて攻撃しましたが、常世が張り手で頭を突くと、
久光は気絶しました。
貴族たちは、久光に再挑戦させようとしましたが、
久光は「もうこりごりだ。牢屋に入れてください。牢屋なら命を失いません」と、
逃げ回ったといいます。


 
「天下の一物」といわれた常世は、五三歳まで最手を務めましたが、
寄る年波には勝てず、また落馬してけがをしたので、
今年の相撲節会を欠場したいと申し出ました。
このとき左大臣の藤原道長は、常世のことを「頭白く髪無し」とけなしています。
 

ころで、NHKの相撲中継では、力士の出身地を放送します。
今も昔も変わらず、国司に率いられた常世のような猛者が、
国や故郷を代表して大一番に挑んだことでしょう。


③ 埼玉県(さいたまけん)

物部連兄麿(もののべのむらじえまろ)

【聖徳太子に仕えた舎人】


玉古墳群のある行田市には、「関東の石舞台」といわれる古墳があります。

奈良県明日香村の石舞台古墳のように古墳の土が失われ、
巨大な石室がむき出しになっているからです。
八幡山古墳と呼ばれるこの古墳は、古くから物部連兄麿の墓とされてきました。

 部連兄麿は、聖徳太子の伝記を集めた
『聖徳太子伝曆(でんりゃく)』に登場する人物です。
兄麿は、聖徳太子の側近として仕え、太子の死後は山背大兄王に仕え、
舒明天皇五年(六三三)、武蔵国造となりました。
いつも仏教を篤く信仰し、社会道徳を守って修行を積む信者の一人で、
冠位十二階の第四階、小仁(従五位下相当)の位を賜りました。
 
 て、この兄麿の墓が、八幡山古墳というのはなぜでしょう。
 
 ず、八幡山古墳は、七世紀中葉の古墳で、
径六〇メートルを超える巨大円墳が武蔵国内にはほかにないこと。
第二に、聖徳太子の墓とされる磯長陵(しながりょう)古墳と
共通した漆塗りの棺が用いられていたこと。
そして、第三に版築と呼ぶ基礎地業を施した古墳であること、
第四に切石積の大型石室で武蔵国内に肩を並べる古墳がないこと。
以上から、七世紀中葉に武蔵国造だった兄麿の可能性が、とても高いのです。
 
 かでも漆塗りの棺を作る技術は、都の周辺に住む渡来系の人々、
とくに乾漆仏と呼ばれる漆塗りの仏像を作っていた集団(仏師)の
技術以外には考えられません。
高級な漆を調達することからして困難な時代。
漆や絹を何層にも塗り重ねて作られた棺は、
彼らが都周辺で作り武蔵国まで運んだのでしょうか。
漆や絹、棺の飾り金具などを携えて下向してきたのでしょうか。

 麿は、若いころ舎人として上京し、
家を支えていた父や兄弟と世代交代の時期が訪れ、
武蔵へ戻らなくてはならない事情が訪れたのでしょう。
蘇我入鹿が、山背大兄王を急襲した事件のとき、
兄麿が武蔵国にもどっていたのは、幸いだったかもしれません。



② 宮崎県(みやざきけん)

藤原保昌(ふじわらやすまさ)

【豪腕を振るう日向の守】


原道長が、摂関政治の絶頂にあったころ、

藤原保昌という男が、日向国の守として、都から下ってきました。
保昌は、国司の引き継ぎのとき、
前任の国司が、任期中に死んだのをいいことに、
国府の備品や建物の欠損状態を実際よりおおげさに見積もり、
修復代金の差額をちょろまかしました。

 から遠く離れた日向国は、福岡県にあった大宰府の管轄にありましたから、
引き継ぎ事務の検査も大宰府で行われました。
大宰府の最高責任者、藤原佐理(すけまさ)(書道で有名な三蹟の一人)も
この不正に一枚かんでいました。
保昌は、「受領は倒れたところの土をつかむ」で有名な藤原陳忠(のぶただ)の甥で、
権勢の頂点にあった藤原道長の家司(けいし)でした。
家司とは、貴族に氏素性を書いた「名簿(みょうぶ)」を提出し、
主人のために命を尽くして仕えることを誓った者たちのことです。
また、貴族たちは、彼らの立身出世を助け、受領として各地に派遣したのでした。

 昌に限らず、都から下る受領たちは、
腕力や武力に長けた用心棒をたくさん従えて下向しました。
旅行中の強盗団や赴任先の豪族たちと、武力で解決する場面がたくさんあったからです。

 昌については、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語集』などに、
袴垂(はかまたれ)という大盗賊を震え上がらせた話、
日向国で行った不正の隠蔽のため書記官を殺害した話、
弟の保輔(やすすけ)が強盗団の首領だった話など、数々の逸話が残されています。

 お、保昌の妻は、あの『和泉式部日記』を書いた女性です。
本名も生没年もわかりませんが、和泉守橘道貞(いずみのかみたちばなみちさだ)、
為尊(ためたか)親王、敦道(あつみち)親王などとも恋愛をするなど、
奔放な女性でした。



① 石川県(いしかわけん)

能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)

【北方の人々と戦った男】


我氏を倒した改新政府は、列島の南北にどのような人々が住むのか、

探検隊を派遣しました。

斉明天皇六年(六六〇)三月、北海道に阿倍比羅夫が、

二〇〇艘(隻)の船団を率いて肅慎(みしはせ)と呼ばれた人々を

訪ねる旅に出かけたのです。


の船団に能登臣馬身龍がいました。

馬身龍は、能登半島に基盤をもつ豪族でした。

能登には、奈良時代に下りますが、舟木秋麻呂(ふなきのあきまろ)、

舟木部積万呂(ふなきべのつみまろ)、舟木部申(ふなきべのさる)など

船にかかわる人々が住んでいました。

能登の人々が、操船や造船の技術に長けていたことがわかります。

また、能登は、塩作りが盛んで、魚介の塩漬けが作られ、

朝廷に貢納されていました。


お、この塩作りや造船が、能登から越後や佐渡へ伝わるなど、

能登と越後は、盛んに交流していました。

そこで比羅夫は、馬身龍たちの日本海交易のルートを用いて、

さらに北の人々との接触を試みたのです。

しかし、平和な貿易交渉は成立せず、戦いとなり馬身龍は、

肅慎たちが築いた弊賂辨嶋(へろべのしま、場所は不詳)の

柵の戦いで、討たれてしまいました。


尾湾に浮かぶ能登島には、馬身龍の墓とされる蝦夷穴古墳があります。

小高い丘を登りつめると、資料館の先に小形の方墳が築かれています。

朝日に輝く七尾湾を望む蝦夷穴古墳には、

二体の棺を置く高句麗系の横穴式石室が築かれました。

高句麗からの使者が、たびたび訪れた能登では、

応対に能登臣があたったことでしょう。

蝦夷穴古墳は、能登と高句麗との交流も考えられる古墳です。


 
株式会社すいれん舎
〒101-0052
東京都千代田区神田小川町3-14
第二万水ビル5B
TEL:03-5259-6060
FAX:03-5259-6070
TOPへ戻る